満月の夜このブログを書き始めた。
桂離宮の想い出が月の光で浮き上がってきたからである。
桂離宮は、月を観るための装置とも言われている。
いつかは、この桂離宮で月見がしたい。
年に一度そういう会があるらしい。
写真集を眺め 次なる実現を企むEriy,T
さて、、、
私は・・・・
桂離宮に兼ねてから行きたかった。
何故かと言って
唯の直感的な 欲望的な
心情の要求が聴こえてくるから。
月夜に塀を越えてでも
入って見るがいい・・・・的な衝動を感じる場所だったのである。
今回の京都小旅行は
桂離宮 修学院離宮 十一面観音が
キーワードだった。
そして、この日を迎え
私は来た。
先ずは 桂離宮
ガイドは
まだ どなたも足を踏み入れていない
園内をご覧頂けます。
と、恭しく言った。
朝一番の回
ガイド付き、一枠20名ほど
所要時間約1時間の庭園ツアーに参加した。
そのために
人が入らない写真を撮るのが中々難しい。
第一印象
ここは秘密の花園的な遊びの庭だ、、、
そんな匂いがすると感じた。
内的センサーが忙しなく動く
秘密めいた匂いはどこからするのだろう。
遊び心満載の
抜群にセンスの良い庭である予感が
してくる。
植木と穂垣に守られた路
突然視界に現れた池
桂離宮では、
日本の海 山 田園 風景が
点在する家屋を巡ることにより
お愉しみ頂ける趣向となっておりますが、
その様子はこちらからは全く見ることが
できない仕掛けになっております。
とガイド
この池は、、、海なのか?
池は再び視界から消えた。
細い道を暫く歩くと小さな門があり
ある空間に出た。
桂離宮のエントランスだ。
広々としていて開放的だが、
実際はこのエントランスと今来た道以外の
ことが
見えない。わからない。
意図的に隠されている。
この下の写真の奥に、表門がある。
桂離宮は世襲王家である
八条宮家初代当主 智仁親王と
息子である智忠親王が江戸時代初期
二世代に渡り造り上げた彼らの理想郷だ。
表門は、檜丸太を門柱にし、磨き竹が使用されている。
これがエントランスのお庭
ガイドによれば
表門からこちらに
道は段々に広くなっており
この限られた空間が絵画で言う
遠近法を用いて広く見えるように工夫が
施されているそうだ。
桂離宮には 限られた空間を
広く感じさせる造園技術や家屋の内装が多く見られる。
現在の桂離宮の基盤をつくったのは、
二代目の智忠親王
父親が没してから10年ほどの間
荒れたままであった桂の別邸の修復に努め、更に造園増築を重ね発展させたわけだが、
桂離宮は、もともと、彼の実父である智仁親王が、桂の地にあった藤原道長の別邸「桂山荘」( 桂山荘は源氏物語の光源氏の「桂殿」のモデルと伝えられている )の後地を見つけ、自分の理想郷として、源氏物語の世界観を再現しようと、造設 造園を行なった八条宮家の別邸であった。
見つけた時には、さぞ、嬉しかったであろうな。とこちらまで、その高鳴る気持ちを
共有した気分になる話だ。
なんたって、物語の中ではあるけど
帝のスーパースター光源氏
ゆかりの土地を見出したのだから。
しかも、藤原道真の元お家
少し謎めいている。
そして、どうやら古書院を建築したらしい。
あの有名な月見台のあるところ・・・
智仁親王について調べてみると
智仁親王は、10歳で豊臣秀吉の猶子となり、将来の関白職を約束されていたのに、秀吉と淀姫の間に鶴松が生まれたため、養子解約とされた。
秀吉の奏請によって、智仁親王は八条宮家を創設することになった。
豊臣秀吉が死んだ直後には、兄の後陽成天皇の意向により、当初皇位継承者とされていた実子の良仁親王を廃して、弟であった智仁親王に皇位継承のチャンスが到来したが、
周囲の反対で断念したという。
智仁親王は結構できる男だったんだろうな。
と、思う。
智仁親王はイイ線まで行って、
運命、ご時世のため、もしかしたら、その持ち前の才気のために、結局、関白にも天皇にもなれなかった。
それで、彼は文芸の才を活かして、王朝文化復興活動に専念したと言われているらしい。
もともと、そちらの方面に並々ならぬ才能があり、大和歌を学び、最高峰の秘伝と言われる古今伝授なるものを細川幽斎から授かったそうな。
細川幽斎は、平安以来受け継がれてきた「古今和歌集」解釈の秘伝を戦国武士の身でありながら継承していた人物だそう。
古今伝授なるものは、調べてみても
良くわからない。秘伝だからね。
智仁親王は、一角の人物たちから、最先端の
教育を受け、その才能を磨き、桂離宮の造園
と、現在の研究では古書院を建てたと言われている。
政治活動は、武家の手に渡ってしまっているが、文芸活動は我ら公家の仕事
王朝文化復興活動の場を思うがままに創造していったのだ。
素晴らしいなあ。と、思う。
人生思うようにいかなくても目の前に
与えられた状況を、自分の宝に育てていく
その心意気
流石は真の教養人
その精神活動は、やがて、子である智忠親王が更に洗練された抜群のセンスを持って
受け継ぐ
じつは、、、智忠親王の桂離宮修復事業決意は
結婚相手の加賀藩主
前田利常の息女富姫 ふうひめ様のご実家からの援助が決め手であったようだ。
経済的バックがあってこその
智忠親王の修復、さらなる造園 増築事業ができたのだ。
智忠親王は、この事業を経て、優れたアートクリエイター ディレクターへと自らを成熟させていったのだろう。
加賀百万石は凄いな。
詳しくは知らないが、駒場東大前の旧前田邸の歴史を辿ってみても、今のところ、家系として文化芸術活動を愛し、貢献している印象が強い。
パトロン大事・・・
はてさて、話を見学に戻して、と、
表門から入って来た客人が
苑内へ向かう前の境界 御幸門を前にし
後ろを振り返ると
とても遠くに見える表門と..
松 と 竹
松と竹 石が演出する
独特の清々しさ
見た目だけでなく
ここを流れる風が
私たちの心に清らかさをもたらす
風と水の通り道が生き生きと
しかし、行儀良くある。
そして
離宮苑内に行くには
門を潜るという儀式を経る
この御幸門は
百八代天皇、後水尾上皇をお迎えするために、二代目智忠親王によりに造られたのが
始まり
後水尾上皇は、智仁親王の甥にあたる。
彼は生涯に渡り、
学問や文芸を愛した天皇であった。
「伊勢物語」や「源氏物語」といった古典の注釈書も執筆し、歴代天皇で最多の著作を残したと言われている。
そして、私がこの日の午後に訪ねた
庭園文芸サロン会場
修学院離宮を造った天皇なのだ。
まあ、彼らは親戚だからね。
この御幸門を潜る時
昔 所属していた秘教勉強会で聴いた
狭き門を通ることの意味を想い出した。
限られた者であることを認識するための
象徴と聴いたかしら?
何しろ、詩の秘伝を受け継いでいる家系の
創造した庭園 隠された秘密が施されている
その気配と香りを感じたいものだ。
門を潜るとまたもや限られた視界
この先に何があるか、やはり、分からない。
けれど、閉塞感はなくて、広々とした雰囲気を感じていられる。
井の中の蛙 大海を知らず
されど空の高みを知る・・・・・
これは意識しておきたい
日本人だからこその感覚だと私は思っている。
左に曲がると、茶室へと繋がる道へ
心憎い石遊びが随所に見られる
まだ、見えぬ茶室の待ち合い
茅葺寄棟造りの外腰掛けから
この風景を眺める。
当時 ソテツは珍しかったであろうなあ。
これから舟遊びをする前の
余興的な空間を
庭で演出したのだろうか。
ここからは、海と見立てた池も、島も、
そこに建つ、茶室もまだ見えない。
段々ガイドの決まり切った説明が頭に入らなくなってきて、
いつもの事なのだが、自分の内的触手が
センサーのように動き始めてきた。
デザインされた
飛び石
燈籠
手水鉢が要所要所に見られる
説明を聞き、
人を避け、
写真を撮るのが難しくて、、、
自分なりの写真でお伝えできないが
自分たちの感覚と感性を徹底的に追究した
智仁.智忠両親王の美的心の要求に対して
その感覚から湧き出た感情を満たすように
匠たちの技が活かされている。
そんな気がする。
その今を体験できる私たちは、幸せだ。
この先、何が待っているのかな?
ここまでは、その序章の趣き
と、妄想して楽しみながら、歩くいて行くと
水音が聴こえ始める
次に、ふっと
視界が開け、池があり、その向こうに茶室が見えた。
桂離宮唯一の茶室 茅葺入母屋造りの
松琴亭である。
他はどちらかと言うと、茶屋の趣きであるとのこと。
松琴亭までの水辺は洲浜と言う。
洲浜とは海や川の岸辺を表現するために、
小さな石(礫)を敷き詰めたデザイン
他に入江
そして、天の橋立の模景がある。
智仁親王は源氏物語の世界観を
再現し、簡素な趣きを大切にしていた。
と、言われているが、
簡素と言っても、侘び寂び系ではなかったの
だろう。
かと言って雅とも違う。
いったいどこに誘われて行くのであろうか..
という期待が高まる。
この離宮に招かれた客人は
この庭をどんな服装で、
どんな風に歩いていたのかしら。
庭は中々にワイルドな造りでもある。
一本の切石を渡した橋の向こうに佇む
一見 簡素な家屋
そして、
ひと旅を終えて
辿り着いたように感じる松琴亭は
私のイメージする公家趣味の
家屋ではなかった。
斬新なデザインを盛り込んでいるが
簡素にみえる機能美
品良く仕上げる匠の技
これは子息 父親没後、智忠親王が後に建てた茶室だと言われている。
粋な色使いもデザインもとてもお洒落
私の写真じゃあ伝わらない
そして、眼前に広がる水辺の景色
家屋と庭の一体感
この空間にいる人々の
心を豊かにしてくれる。
ここは、粋な舟遊びと文学の世界への遊泳
により、客人をおもてなしするところ
日本最古の回遊式庭園なのだ。
庭にも
匠の技と人工的自然とが上手く共存して
まるで自然が人間と仲良く共創した芸術作品の中に入って遊んでる感触
たまらなく心地良い。
この池を海に見立て
各日本家屋のある岸に灯籠を配して
灯りを灯し、舟を浮かべて回遊する。
やはり夜が良いだろうなあ。と、感じた。
月の美しく輝く夜
月の見えぬ夜
夕焼け 朝焼け時が
この池の様相から察するに
風流を極めたことであろう。
タイムトリップして私も遊んでみたいよ。
細部を拾ってしまいたい習性のある私には
たった1時間で見学参加者の皆さんと説明を受けて回るには
この庭園はあまりに情報が多すぎる
まだ、一箇所しか見学していないのに。。。
一冊の書物を手に、ある物語に触れたようだった。
次は
山の雰囲気を体験できる中島
小高い丘を飛び石に導かれて登ると
賞花亭 茅葺切妻屋根に皮付きの柱
建物の奥には竹の連子窓がある
その裏手が涼しげな様子になっており
そこからの世界観は
深山幽邃 しんざんゆうすい
表を向いて座れば、
眺めはこのようなもの
一つの建物からこんなに違う世界観を味わえるんだな私たち日本人て、、、と、感心した。
ここに来るまでに
水蛍と呼ばれる石燈籠があった。
さて、賞花亭を下ったところに
本瓦葺宝形造りの園林堂がある。
ここだけ、後から建築されたので
雰囲気は違うが、対岸から見ると
私はあそこにいたのか、、、と、
後から、満足感が湧いてくる。
足元の敷石の造りが素晴らしい
さて、中島の茶屋で
山幸 海幸 の体験に
お別れして
次なる茶亭 笑意軒 までの道
遠くからこの風景、佇まいを眺めた時には
この家に住んでみたいと
衝動的に思っている自分がいた。
笑意軒
茅葺寄棟造りの屋根に杮葺・こけらぶきの廂・ひさし
この絵画の額のような窓に
田んぼが見えるのである
松琴亭 賞花亭 笑意軒 と観てきた記憶と
八条宮家二世代の仕事を考えると
一見、桂離宮の家屋は簡素に見えるが
実は贅沢を極めた造りになっている。
と、いうのが、智仁親王のお好みだったのだろうと感じた。家屋の随所にこだわりの選び抜かれた素材が、匠の技により、品良く施され、それはそれは贅沢な仕上がりとなっていた。
教養により培われた独自の感性を活かし、
冴え渡るセンスを用いて、それまでの伝統的公家スタイルにこだわらず、自らが素材選びや、デザインにこだわりを持って携わり、家屋の内装改修、御殿の増築、庭園の整備などを行ない、荒れ果てた桂の別荘を蘇らせた。
智忠親王の洗練されたセンスは、
当時 綺麗 と
呼ばれていたそうな。。。
智忠親王は
ここに後水尾上皇をおもてなしし、
時の文化人たちの集いの場
遊び場をコーディネートしたかったのだ。
後水尾上皇をお迎えすることにより
公家文化活動は、本物となる。
うーん、この事実も感慨深い。
本当はお父さんが天皇になっていたかもしれないのを、断念した経緯があるわけだから。
けれど
その心は、多分、
権力に対する野心ではなく、
美を愛し、表現を追求した彼らの愛の
ような感じがした。
月を愛で
水音に親しみ 舟遊びを嗜み
四季折々の草花たちのもとで
歌を詠み 酒を酌み交わして戯れる
最後の書院は、もう、書ききれない、、、
あの月見台と、楽器の間がある
池に面した月見台から
どんな月を愛でたのであろう
楽器を格納する間があるということは
宴の際に雅楽や舞が披露されたのであろう
そして、これは、対岸に見える松琴亭
内装までが良く見える
彼らの公家文化復興活動は、結果、桂離宮を未来へと伝えるための基盤を築き、日本の建築や庭園文化の粋を後世に伝える役割を果たしたと言える。
行って良かった。
さようなら・・・
また 訪ねます。
Eriy,T は 桂離宮にいった・・・・
参考までに、パンフレットの地図を!