書籍情報

なぜふつうに食べられないのか: 拒食と過食の文化人類学https://www.amazon.co.jp/%E3%81%AA%E3%81%9C%E3%81%B5%E3%81%A4%E3%81%86%E3%81%AB%E9%A3%9F%E3%81%B9%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%8B-%E6%8B%92%E9%A3%9F%E3%81%A8%E9%81%8E%E9%A3%9F%E3%81%AE%E6%96%87%E5%8C%96%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E5%AD%A6-%E7%A3%AF%E9%87%8E-%E7%9C%9F%E7%A9%82/dp/4393333365 
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はじめに

私は医師であり、現在摂食障害の方を一人、継続的に診療しています。そういう意味で非常に関心の高い話題だったため、まとめてみることにしました。
*精神科医ではなく、家庭医療専門医という専門医資格を持っています。ざっくり言うと、「町医者を専門的にやってる」医者です。

概要

本書は、摂食障害という精神疾患を持つ6名の女性へのインタビューを通して、摂食障害の内実や、ひいては人が食べて生きることの意味を多面的に考察した本です。
個々の女性の具体的エピソードは省略しますが、読んでいてなかなか辛いものがあります。
この読書ログでは、本書の主張を4点にまとめてみました。
・やせることの社会的意味とジェンダー差
・依存性(フローと非日常体験)
・家族関係の問題のせいで摂食障害になったのか?
・食体験の視点の複層化

やせることの社会的意味とジェンダー差

日本や西欧社会では、一般にやせていることが美しさの基本条件とされています。
「デブ専」のように太った人を好む方もいますが、これはあくまでやせているのが美しいというのが一般認識であるからこそ生まれた言葉ですよね。

なぜこうした認識が生まれたのか?本書では3つの社会的な要素を指摘しています。

1つは、食料事情です。大昔、狩猟社会から農耕社会に移行することにより、貧富の差が生まれました。その頃は太ることは富の象徴であり、上流階級の証でした。更に時代が進むと工業化が進み、貧しい人でも簡単に太ることができる社会になりました。そのことにより、太ることは社会的なステータスではなくなります

2つ目は、医療の変化です。以前は病気を防ぐことよりも、病気を発症した人の救命が医療の中心でした。医療進歩などにより救命がある程度可能になってくると、病気を早期発見したり発症を予防したりという予防医学的な発想が進んできます。
様々なライフスタイルが病気のリスクになることがわかると、ライフスタイルに介入するという発想が生まれ、更にライフスタイルを管理するのは自己責任だという価値観が生まれます。

3点目は、個性の追求です。外的な価値観として宗教・国家・科学・資本主義などがありますが、現代に生きる我々の多くはそれらを絶対的な価値観として信じ切ることができません(本書では、「大きな物語を失った」時代と表現しています)。その代わりに、私たちは自分自身に価値観を置き、それを重視することが求められます。個性とか自分らしさと呼ばれる類のものですね。
個性を表現する中で、身体もその対象となります。メンテナンスを行い、引き締まった身体により他者との差異化を図り、自分自身を表現することとが重要視されることになります。

また、やせることの社会的意味にはジェンダー差があります。

結婚相手に求める条件を男女に聞いた調査によると、男女とも共通したのは人柄や家事の能力、仕事への理解などでした。一方で、男女差があったのは、女性は男性の経済力や職業などの社会的地位を重視する傾向があったのに対して、男性は女性の容姿を重視する傾向があったことです。
また、社会の現実と学校教育の矛盾も重要な問題です。女性は、学校教育では(表向き)学力などが評価されるが、現実社会では容姿が重要視される。実際、日本では20代や30代の女性のやせすぎが多いことが指摘されており、この矛盾の証左とも考えられます。

依存性(フローと非日常体験)

なぜ摂食障害の方(の多く)は過食をやめられないのか?過食には一種の依存性があるからだと本書では語られます。依存になるのは、以下のような条件が満たされるからです。

適度に難しい(より多く食べられて吐き出せる食材の選定や食べる順番の工夫)
明確なルールがある(できるだけ多く食べ、吐き出す)
③自己没頭できる=フロー状態になれる
④強力なフロー状態になれるため、他の代替行動では満足できない

また、過食の対象となる食べ物はキャベツなどではなく、かつ丼や菓子パンなどの不健康的な食べ物ですが、これにも理由があります。過食はある意味で非日常体験なのです。
誕生日にケーキを食べるように、正月に餅を食べるように、祝祭の時には特別な食事がふるまわれます。普段は食べない不健康な食べ物をあえて食べることにより過食は非日常体験となり、日常の辛さを一時的に忘れることができるのです。

ただし、通常の祝祭と異なり、過食は悲しい祝祭です。この非日常体験は記憶に残したいものではなく、誰かと共有したいものでもないからです。

家族関係の問題のせいで摂食障害になったのか?

摂食障害において、医学的に原因と推定されているものは幾つかありますが、特に重要視されているものの一つは家族(母子)関係です。特に母親の過保護や過干渉、家族内の不和などが一般に言われています。

確かに本書で出てくるどのエピソードでも家族関係に問題があることが伺えますが、家族関係が改善すれば必ずしも摂食障害が改善するとは限りません

また、他国の例も挙げられており、シンガポールでは家族関係を摂食障害の原因とする論調は少ないそうです。むしろ欧米化の影響や、肥満対策の政策の影響が指摘されています。シンガポールでは働く女性が多く、子供の問題を母に落とし込む見方になりがちな日本とは考え方が異なるのかもしれません。

食体験の視点の複層化

私たちが食事をするとき、無意識のうちに色んな背景知識を用いています。
・食べていいものはどれか?(韓国では犬食がありますが、日本だと食べないですよね)
・食材の入手法は?加工や保存方法は?
・どうやって食べるのか?(レストランで、床に座って食べたりはしないですね)

家族や学校の給食など、様々な他者との関わりの中で、私たちはこうした知識を徐々に身に着けていきます(=ハビトゥス)。背景知識には必ずしも合理的理由があるわけではありませんが、食習慣を通じて他者と連帯することができます。同じ釜の飯を食うというやつですね。こうした食事は、感覚的・体験的なものです。

一方で、カロリーや体重といった科学的な視点から食事を見ることもできます。これは食べ物を数値で捉えなおした食事のあり方であり、そうした意味で概念的です。

現代を生きる私たちは、感覚的・体験的な食事の仕方と、概念的な食事の仕方と、両方の視点を持っているように思います。

摂食障害の人は感覚的・体験的な食事ができなくなっており、食事を概念的にしか捉えられなくなっている、という言い方もできるかもしれません。感覚的・体験的な食事ができないと、食事を通じた他者との連帯が難しくなり、人間関係の構築や維持が難しくなるのかもしれません。


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以下、感想です。


まず、過食の依存性というのは言われてみれば尤もですが、あまり考えたことのない視点でした。医学書でもあまり指摘されているのを見たことがなく、摂食障害の難しさの一端を垣間見た気がしました。

また、家族関係が摂食障害に関連するというのもよく見かける論調の一つですが、本書はどちらかというとそれに否定的で、そのことも新鮮でした。

全体を通して、疾患を医学以外の視座から眺めてみるというのは、非常に興味深かったです。本書を実臨床でそのまま活かせるかは分かりませんが、患者さんと向き合う上で参考になる一冊でした。

*お目汚しですが、メモ書きをバックアップファイルとして添付しています。