-目次-
・はじめに
・「死までの遠近 ―ジョブズ、私の友人、ハイデッガー」要約
・平野氏によるハイデガー批判
・俺のハイデガーと違うのだが…
・「思考の強制」としての文学
はじめに
ご紹介する『文学とは何の役に立つのか?』は、作家の平野啓一郎氏による文学・芸術論集である。約340頁にわたる論集であり、読み応えはバッチリだ。また、本作のタイトルになっている「文学とは何の役に立つのか?」は、平野氏の講演録形式のテキストとなっている。
さてさて。ぶっちゃけ、表題になっているこの「文学とは何の役に立つのか?」は、僕が紹介して、考察して何か言わなくてもいいだろう。僕よりよっぽど詳しい文学精鋭軍団がきっといい感じに紹介・批評・考察してくれるはずだ。だから、僕には僕に適したテーマで書かれているものを取り扱う。それが、「死までの遠近 ―ジョブズ、私の友人、ハイデッガー」だ。
「死までの遠近 ―ジョブズ、私の友人、ハイデッガー」要約
まずは、「死までの遠近 ―ジョブズ、私の友人、ハイデッガー」が、どのよう内容テキストであるかを簡単に紹介しよう。冒頭では、スティーブ・ジョブズの有名なエピソードが紹介されている。「もし今日が人生最後の日なら、その日の仕事をするか?」とジョブズは毎日鏡の自分に問いかけていたという話らしい。
そんなジョブズの逸話を引っ張って、平野氏の友人は「自分なら〔=平野氏の友人〕家族や友人とのんびり過ごす」とTwitter(X)で呟き、平野氏もその通りだと笑ってそれをリツイートしたという。
問題は、その平野氏の友人が、その数か月後に自死されてしまったということだ。平野氏曰く、思い返せばその自死に至るサインは出ていたのかもしれないとのこと。ジョブズの逸話について呟いたのも、そのサインだったかもしれないと。つまり、その友人は〈真剣〉に「今日が人生最後の日なら」と考えていたのかもしれないというわけだ。
ここで、ジョブズの話に戻る。ジョブズのその自問自答には、どうやら一種のトリック(密輸入)があるらしい。というのも、ジョブズは本気で〈今日が人生最後の日になる〉とは考えていない。なぜなら、「もし今日が人生最後の日なら、その日の仕事をするのか?」という問いのあとに、「この自問自答に対して、「NO!」という回答が〈つづく〉なら、自分を変える必要があるのだ」という話にもっていくから…とのこと。確かにこれは、「本気で今日が人生最後かもしれない」と考えているというよりかは、仮想実験による自己啓発の類いだ。本気で「今日が人生最後」と考えるなら、自己をどうのこうのと変えようとするのでなく、平和に安静に過ごすだろうし、そもそも自己を変える日は今後やってくるはずもない。そして、ジョブズと平野氏の友人によるこのエピソードは、ハイデッガー(以下、ハイデガーと呼ぶ)の『存在と時間』を想起するとのことである。
平野氏によるハイデガー批判
というわけで、当テキストは、ある程度ハイデガーについての予備知識がある方が入ってきやすい。だいぶ駆け足で説明するが、ハイデガーは「死への先駆」という概念を用いて、自身がいつか必ず死ぬ存在であることを理解することによって、人生に優先順位をしっかりと付けて「本来的な生」(その対義語となる「非本来的な生」もある)をおくることができるのだと主張した……というような話だ。
しかし、平野氏はこれに対して、批判を投げかける。以下の具合だ。
「しかし、問題はハイデッガーが先駆すべき死を、一体、いつ訪れるものと想定しているかが、『存在と時間』では、まったく分からない点である。我々は一体、漸進死する存在なのか、五分後、十分後にも、突然死する存在なのか。私は死する存在なのだ、と自覚するところまでは良い。その具体的な行動は、どう考えれば良いのか?」
(平野啓一郎「死までの遠近法 ―ジョブズ、私の友人、ハイデッガー」『文学は何の役に立つのか?』所収、岩波書店、2025 四一頁引用)
そして、その「死への先駆」を今日と考えるなら、結局はジョブズと言っていることが同じで、〈真剣〉に今日死ぬと思っていないと。そんな「背理」を含んだ「死への先駆的決意」で、「本来的な生」などおくれはしない。〈真剣〉に今日死ぬと「死への先駆」を行うのであれば、友人や家族とのんびり過ごす「頽落」的な「非本来的な生」をおくるのが自然だと。この自然なことを「本来性」と言わずに、「非本来性」の側に位置付けるハイデガーの議論には欠陥があるのだと。
平野氏の友人は、想定でなく、〈真剣〉に「死への先駆」を行った。しかしそれは、ハイデガーの考える「本来的な生」と呼べるような、覚悟と情熱に満ち、大衆(世人)から解放され、死への不安からの解放では全くなかった。
俺のハイデガーと違うのだが…
以上は、平野氏のハイデガー読解に基づいたハイデガー批判だ。さて、困ったことに僕の読解したハイデガーと、平野氏の読解したハイデガーは、全く異なる。以下では、僕のハイデガー読解を記す…のだが、これは、どう足掻いても平野氏の読解に対して、異論を突き付ける作業になってしまう。そんな偉そうなことをするくせに、僕は自分の『存在と時間』読解に物凄く自信があるわけでもない。だって、読んだのが二年前の10月とかだし、今丁寧に再読している暇もない…。が、少しだけの自信はある。なので頑張ってみる。
まず、先に引用した部分で、以下の部分に注目してほしい。
「しかし、問題はハイデッガーが先駆すべき死を、一体、いつ訪れるものと想定しているかが、『存在と時間』では、まったく分からない点である。」
前掲書、同頁
全くもってその通りなのだ。ハイデガーの「死への先駆」という概念は、死をいつ訪れるものとして想定しているかはまったく分からない…いや、まったく書いていない。
何が言いたいのかというと、「死への先駆」において、死のタイミングが記されていない以上、「〈今日〉死ぬかもしれないと死を想定する」と捉えたうえで、ハイデガーの「死への先駆」を批判するのは、やや強引なのではないかということだ。これは転じて、ジョブズの「〈今日〉人生最後の日だとすれば(略)」を、ハイデガーの「死への先駆」と同一視するのは、違うと僕は見ているとも言える。
では、「死への先駆」をどう捉えるべきなのだろう?
「先駆とは、みずからにもっとも固有のもっとも極端な存在可能を理解することができるということであり、本来的な実存の可能性ということである。(中略)この「可能である」を理解することこそが、世人自己の日常性のうちに、事実として自己喪失していたことを、初めてあらわにするのである。」
ハイデガー著 中山元訳『存在と時間』6、光文社古典新訳文庫、2019 一二五頁~一二六頁引用 太字強調引用者
太字強調の部分に注目して欲しい。「みずからにもっとも固有のもっとも極端な存在可能」、「この「可能である」」というのが「死」のことだろう。それを「理解する」とある。つまり、ハイデガーの「死への先駆」とは、「自分が死ぬ存在者」であることの〈自覚〉だ。それは、「有限性の自覚」と言ってもいい(この「有限性の自覚」は、「「今」という時間が無限に続くような認識で生きている」存在様態を「非本来的な生」と位置付けていることを念頭においたうえでの僕の造語だ(第二編81節))。
ということは、「私は死する存在なのだ、と自覚するところまでは良い。」というこの平野氏の指摘、これこそがハイデガーの言う「死への先駆」であろうというのが私の読解なわけである。
『存在と時間』における「死」をもう少し詳しく見てみよう。
「死という言葉で語られる終わりは、現存在が〈終わりに達していること〉を意味するのではなく、むしろ現存在としての存在者が終わりに臨んでいることを意味するのである。死とは、現存在が存在するようになるとすぐに、現存在がみずから引きうけるありかたである。「人間は誕生したときから、すでに死ぬにふわわしい年齢になっている」のである。」
前掲書、六四頁引用 太字強調引用者
ハイデガーは、この文脈で論じられている「死」の意味を「現存在としての存在者が終わりに臨んでいることを意味」しているものと定義している(「現存在」というのは、「人間」のこと)。キーワードは、「終わりに臨んでいる」という部分だ。試しに、「臨む」という語句をネット辞書でもなんでも調べてみてほしい。「直面」とか、「面する」という意味が含まれている。つまり、ハイデガーがここで言いたいことは、人間(現存在)は、「死が物凄く〈近い〉」存在者だということだ。だから、「人間は誕生したときから、すでに死ぬにふわわしい年齢になっている」というブルタッハという人の著作を引用して、このことを説明しているのであろう。あくまでも、「近い」のだから、死と一体になる想起をしているわけではない。
この部分を考慮して、敢えてハイデガーが想定している死のタイミングはいつなのだと聞かれたら、「今この瞬間」と答えることができそうだ。チャットGPT曰く、人間にとっての瞬間とは0.1秒らしいので、「0.1秒後」と言い換えてもよい(科学が詳しくないので、この0.1秒はあくまでも参考程度に)。ただし、それは「今この瞬間死ぬかもしれないから、計画を立てて本来的に生きろ」という意味ではなく(そんなの0.1秒では不可能だ)、「今この瞬間に死んでもおかしくないことの自覚をもって、投企※して生きろ」という意味だ。このように解すなら、ジョブズの「死の想定をした生の密輸入」トリックにハイデガーも陥っているとはならない。なぜなら、「今この瞬間に災害などが起きて死ぬかもしれない」と「理解=自覚」して生きることは、何ら矛盾をきたすような事象を招かない。
※「投企」を「人生設計のような計画」と混同してはいけない。「投企」は、人間がこの世界で生きている以上、勝手にさせられてしまう、つまり、もっと「オートマティック」な意味が含まれているハイデガー用語だ(第一編66節)。
「思考の強制」としての文学
平野氏のエピソードに戻ってみよう。以上で見たように、ハイデガーの「死への先駆」がジョブズのそれとは全くの別物であり、かつ、「死への先駆」(あるいは、「死への先駆的決意性」)を「今この瞬間死にうることの自覚としての投企(生)」と解すなら、これは、「死への先駆」を平野氏の友人が行っていたのかどうかは怪しい。なぜならハイデガーは、少なくとも堂々と「生」を前提に「死への先駆」を論じていると私には思われるからだ。であるのならば、ハイデガーが主張している「死への先駆」や「本来的な生」が、最終的に本当の自死を招かざるを得ないという批判も違うように思われる。直ぐに注意書きを入れるが、これはハイデガーを擁護し、平野氏の友人の自死をどうのこうの言いたいわけではない。そもそも、私はハイデガー主義者でもない。哲学者を自称するものとして、ハイデガーという一哲学者の読解の話をしているに過ぎない。そして、このエピソードによって、ハイデガーを批判するのは少し無理があるのではなかろうか…というごく一部の範囲に留めた話だ。
「お前は、ハイデガー主義者でもなく、擁護したいのでもなく、それなのに、こんな熱量でこれだけ書いたのか」と思われるかもしれない。自分でも思った(笑)
「文学は何の役に立つのか」では、文学における「共感」に関する話がされている。そこで言われている「共感」は、完全に自分と一致してはいないという意味での「共感」らしい。あくまでも、多少の「隔絶」があることがポイントのようだ。僕はこれを「近さ」とう言葉に言い直してみたい(「共感」という言葉は妙に抵抗感がある)。
僕の本稿の熱量は、平野氏のこのエピソードに、ある種の「近さ」がもたらしたから…と振り返ってみる。どういうことかというと、僕は去年の11月に非常に仲が良かった友人を自死で亡くしている。実際に亡くなっていたのは、8月だったらしいが、別の友人から11月のタイミングで知らされた。知らせてくれた友人は知ってすぐに連絡してきた様子だった。お互い冷静ではいられなかったせいで、喧嘩になり、仲違いした。僕の亡くなった友人にも、自死のサインは出ていた(そのことには後から気づいた)。
こんな経験があったからこそ、「死までの遠近 ―ジョブズ、私の友人、ハイデッガー」の内容は、とても僕には近しい話だった。だから他人事ではない、誠実に考えたからこその「このエピソードによる問題提起は、ハイデガー批判として成り立つのか…?」と考えさせられ、この文字数となった次第だ。…多分。
さて、僕はこの「死までの遠近 ―ジョブズ、私の友人、ハイデッガー」をある種の「共感」=「近さ」を伴って読んだのだから、本書の「文学は何の役に立つのか」に即すと、この文章はある種の「文学性」を帯びているのかもしれない。
仮にもしそうなら、「文学」はやはり、ある種の「役に立つ」という側面がありそうだ。なぜなら、平野氏の書いたこの文学的なものが僕をここまでの「思考」へと駆り立てたのだから。おかげでハイデガーについて改めて色々考えることができた。「思考の強制」としての文学。
PS.
それにしても、「文学」とはなんなのだろうか。文字で書かれてある物語がすべて「文学」とは思わないし、「共感」「近さ」が文学を定義づけるものとも僕は思わない。それは、「文学」の効果=結果としておこりうるものであって、「文学」それ自体を表すものではない気がする。2025年7月16日現在、僕の思考の強制は続いているようだ。
本記事は、OSIRO社のコミュニティ献本企画に参加し、献本を受けて執筆しました。
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