こんばんは、ダッチです!


本日のブログでは、エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」をまとめていきたいと思います!


ぜひ読んでくださると嬉しいです☺️


◎もくじ


中世の特徴【人・社会】
近代の特徴【人・社会】
「積極的自由」に生きるには?
感想




◎中世の特徴【人・社会】


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・その当時の人間・社会の目的は、人生そのものであり、人間の精神的な救済(=人間の幸福)であった。


そうした社会では、経済活動は、すなわち人生の目的を促進する限りにおいて、その目的を達成するための手段としての意味においてのみ尊さを持っていると認識されていたし、


だからこそ、経済的活動は神からの救済を求める人間の行為の一面であって、人間的行為の他の面と同じく、道徳律に結び付けられていたので、人間が身分相応な生活をするために必要な富を追求するのは正しいが、貪欲は罪であるという具合に認識され、実際にそのように行われていた。

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そしてそもそも、当時の人間は、生まれたときから既に明確な固定した地位を持ち、人間は全体の構造の中に根を下ろしていたため、人生の意味は疑う余地のないものであったし、人々は社会的役割という面でのみ、自分の存在を意識していた。社会的秩序という自然的秩序の中ではっきりとした役割を果たせば、安定感と帰属感が与えられた。



また、中世社会においては近代的個人主義は存在しなかったが、実生活における個人主義は存在していた。



その結果、中世社会は人々を束縛していたものの、その自由を奪わず、人は社会的地位の限界を破らない限り、自由に独創的な仕事をすることも、感情的に自由な生活をすることも許されていたのだ。


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◎近代の特徴【人・社会】



人間・そして社会の目的は、経済活動を絶えず行うことになっており、人間はそれを達成するための「手段」として認識されている。


ゆえに、経済的活動に資することのできる「生産的」で「有能」な人こそが「経済」を第一としたシステムの中では「価値」のある人だと認識される。言い方を悪くすれば、良い歯車、悪い歯車として認識される。


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こうした社会で生きる人々は、「生産的」で「有能」な社会の「手段」であろうとするため、自分の意志を滅却させ、成功、物質的獲得に勤しみ、それ自身を行うことが人間の運命となる。



その結果、孤独で不安な人々にとっては、富や名誉を得たいという利己心、自己中心主義が最も強い動機となり、人々の間には猜疑心や嫉妬・怒り、人生への無意味感が芽生える。そして、人々は社会の歯車となろうとし、内面的自由までも失ってしまう。

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ただし、人々が「第一次的絆」から「自由」になったことに伴い、積極的自由が大いに増加し、一人一人が能動的で批判的な責任を持った自我を成長させ、経済的政治的自由、個人的創意に対する機会、合理的啓発の増大が自我を強め、個性や独立性や合理性を発展させたことも押さえておく必要がある。   


このような人間が解放されるには、人間が自由で独立した個人として、全人格の統一と力強さに基づいた愛や自発性によって外界と結ばれる(=積極的自由)か、でなければ自由や個人的自我の統一性を破壊するような絆によって一種の安定感(=逃避・服従)を求めるかのどちらかによってしかなし得ない。


そして多くの人々は、自身の抱える孤立や弱さに耐えかね、自分の外側の何者かと自分自身を融合させたり(=サド・マゾヒズム的性格、権威主義的性格(→共棲的結合))、
自分にとって脅威となるものを壊したり(=破壊性)、文化的な鋳型によって与えられるパーソナリティに従って、自動人形となる(=機械的画一性)といった「逃避のメカニズム」に従った行動を起こしてしまう。


これらの行為によって、人は、自身の孤独感を解消でき、自身の力の大きさを確信できる一方で、自らの個性と自由、誇りまでもを失ってしまうほか、
悩みからは表面的には解放されたものの、意識的でないとしても、「自由になりたい」という衝動が残る。


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そしてフロムは「逃避のメカニズム」を詳細に説明した上で、孤独で無力な近代人に「積極的自由」に生きるという選択肢を示した。











◎「積極的自由」に生きるには?




そもそも、「積極的自由」とは何か。



フロムは、「積極的自由」を「人間が自由で独立した個人として、全人格の統一と力強さに基づいた愛や自発性によって外界と結ばれること」と定義している。



そしてフロムは、人は「積極的自由」に生きることで、人間は自由でありながら孤独ではなく、批判的でありながら懐疑に満たされず、独立していながら人類の全体を構成する部分として存在でき、自分の人生の意味を実感できるとも述べた。

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では、「積極的自由」はどのようにすれば実現できるのだろうか。


フロムは、人が真の自我を獲得することによって「自分自身」となり、そうあることで、こうした生き方が可能であると述べており、それを基礎付けるのは「自発性」「自発的な行為」だと述べた。


すべて自発的な行為において個人は世界を包み込む。かれの個人的自我は損なわれないばかりか、一層強固になる。というのは、自我は活動的であるほど強いから。物質的財産の所有であれ、感情や思想のような精神的な能力の所有であれ、所有そのものに何ら純粋な強さはない。我々の使うものは、我々がそれを使うからといって、われわれのものではない。我々のものとは、人であれ無生物であれ、我々が創造的活動によって純粋な関係を持っているものだけである。我々の自発的な活動から生まれるこれらの性質のみが自我に強さをあたえ、ひいては自我の統一性の基礎となる。


自発的に生きることができる時、この疑いは消失する、かれは自分自身を活動的創造的な個人と感じ、人生の意味がただ一つあること、それは生きる行為そのものであることを認める。これらを克服することで、自発的に自然を包む関係を保つなら、個人として強さを獲得する。新しい安定は個人が外部のより高い力からあたえられるような保護に基づいているものではない。新しい安定はダイナミックである。それは人間の自発的な活動によって瞬間ごとに獲得される安定である。それは自由だけが与えることができ、まぼろしを必要とする諸条件を排除しているがゆえに、なんらまぼろしを必要としない安定である。





それでは、フロムの言う「自発性」とは何か。

自発的な活動は自我の自由な活動であり、心理的にはみずからの自由意志ということを意味する。




そしてフロムは同時に、人間のパーソナリティを分割し、人間の本性を抑えてコントロールを施そうとする性質を持つ「理性」や、



「孤独や無力によって駆り立てられる強迫的なもの」でも「外部から示唆される型を無批判的に採用する自動人形」のような行為を「自発性」や「自発的な活動」でないとした。



実際にフロムは、「理性」が優位となった近代人は、自分の意志で行動しているとは思っていても、実際には「機械的画一性」によって、「自発性」を十分に確保できていないと主張する。

多くの人々は何かをする時に、外的な力によって明らかに強制されない限り、彼らの決断は自分自身の決断であり、何かを求めるとき、求めるものは自分であると確信している。
われわれの決断の大部分は、じっさいにはわれわれ自身のものではなく、外部から我々に示唆されるものである。
決断を下したのは自分であると信じることはできても、実際には孤独の恐ろしさや我々の生命、自由、安楽に対するより直接的な脅威に駆り立てられて、他人の期待に歩調を合わせているのに過ぎない。




これらの観点から導き出せるのは、フロムが、外部から影響を受けることがなく、人間の心から自然と湧き出てくる感情や思考、意志に基づいた心の性質を「自発性」だとしている点である。(←→理性



フロムは「自発性」の例として、以下の事例を挙げている。

われわれの大部分は、われわれ自身の自発性を認めることができる。それは同時に純粋な幸福の瞬間である。一つの風景を新鮮に自発的に知覚する時、ものを考えるうちにある真理がひらめいてくるとき、型にはまらない感覚的な快楽を感じる時、また他人に対して愛情が湧き出る時。




そして、これに続いて以下のようにも述べている。

そしてもしこれらの経験が、それほどまれでも粗野でもなくおこるとすれば、人間の生活がどんなものになるか、想像してみることができるだろう。




つまりフロムは、人は「自発性」に基づいた活動を行うことで、幸せになれる。
こんなことが言いたいのであろう。


(ちなみにフロムは、こうした「自発性」を構成する最も大切なものは「愛」であるとしている。このテーマは「愛するということ」で深く検討される。)

その愛とは、自我を相手のうちに解消するものでもなく、相手を所有してしまうことでもなく、相手を自発的に肯定し、個人的自我の確保のうえに立って、個人を他者と結びつけるような愛である。愛のダイナミックな性質はまさにこの両極性のうちにある。すなわち愛は分離を克服しようとする要求から生まれ、合一を導きーしかも個性は排除されないのである。


(そしてフロムは、「仕事」も「自発性」の構成要素であるとしているが、それを副次的な要素としている。)

仕事もいま一つの構成要素である。しかしその仕事は、(中略)創造的行為において、人間が自然と一つとなるような、創造としての仕事である。


一体感を得る第三の方法は、創造的活動である。(中略)どんな種類の創造的活動でも、創造する人間は素材と一体化する。(中略)どんなタイプの創造的活動においても、働く者とその対象は一体となり、人間は創造の過程で世界と一体化する。ただし、このことがあてはまるのは、生産的な仕事、つまり自分で計画し、生産し、自分の目で仕事の結果を見るような仕事である。(中略)生産的活動で得られる一体感は、人間どうしの一体感ではない。(中略)だから、いずれも、実存の問題にたいする部分的な回答でしかない。完全な答えは、人間同士の一体化、他者との融合、すなわち愛にある。


エーリッヒ・フロム「愛するということ」p34-35より


(ゆえにフロムの言いたいことを図式化すると、「自発性(愛・仕事)→ 積極的自由(=真の自分自身となり、それを保ちつつも、外界と結ばれる」ことで、人は幸福になれるってこと!)




ただし、「自発的な活動」には限界もある。


まず、私たちの「自発性」は「精神」と「肉体」によって分離されているため、精神的な「自発性」を確保しようとなると、肉体的な「自発性」を犠牲にせざるを得ないという点を考慮しておく必要がある。

われわれの肉体的な自我の要求と、われわれの精神的自我の目標とが対立抗争することがあること、すなわちじっさいに、われわれは精神的自我の統一性を確保するために肉体的自我をときに犠牲にしなければならないことがあるのは、人生の悲しむべき事実の一つである。




そしてフロムは「積極的自由」に生きる人の例として「芸術家」を挙げたが、「芸術家」をこのようにも述べている。

しかし芸術家の地位は傷つきやすいものである。というのは、その個性や自発性が尊敬されるのは、実際には成功した芸術家だけであるから、もし作品が売れなければ、かれは隣人から奇人か神経症患者と見られる。



つまり、いくら個性や自発性に基づいた活動を行っても、それが相手に受け入れられなければ、人は孤独なままであり、自身の力の小ささを感じざるを得ないのである。

(ちなみにマルクスも同じようなこと言ってます!「愛するということ」p45 より)

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そうなると、人の内面にアプローチするだけでなく、社会構造へのアプローチも行わなければ、真の意味で「自発性」に富んだ人々が登場するのは難しくなってくるだろう。


では、フロムは「積極的自由」を実現するための社会像をどのように考えたのだろうか。


こうした社会像は、計画経済と各個人との積極的な協同を行うことを両立させる「デモクラシー」にあるとした。

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こうした社会像の詳細・意義は以下の通りである。

デモクラシー: 「個人の完全な発展に資する経済的政治的条件を作り出す組織」のことを指す

計画経済の意義: 人間の下に経済を置き、経済の暴走を防ぐため。人間を目的とし、経済を手段とし、人間の幸福を経済に寄与させるため。→これを民主主義によって人民の下に置く。

積極的協同の意義: 組織の最小単位に依る真の純粋な積極的共同と管理を保証することのできる多くの分権を行うことで、人間が自分の携わっている仕事において個人的創意を行使し、自発性を発達させ、純粋な活動を促すことのできる土壌を作る。




そしてフロムは、ニヒリズムに打ち克ち、こうした形のデモクラシーが実現するのは

人間精神のなしうる一つの最強の信念、生命と真理とまた個人的自我の積極的な自発的な実現としての自由に対する信念を人々に染み込ませることができるときにのみ


だとした。


◎感想


めちゃくちゃ面白かったですね。正直、現代人の心理的問題の根本原因がこの書籍に凝縮されていた気がします笑


人間から自然に湧き出てくる(おそらく。「善なる」「感情」を人々の内面の中心に置き、「理性」をそれに従わせていくことが大切だよ!(そうすることで人生も幸福なものになるし、社会も良くなっていくよ!
っていうフロムの主張は、今の社会を見ていると非常に真っ当な意見だなあと感じました。


内容としても「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」「愛するということ」はもちろんですが、その他にも、今まで読んできた本との関連や集大成的な部分が非常に多く、読んでよかったな〜と感じられました。


章で言うと、第三章「宗教改革時代の自由」第五章「逃避のメカニズム」が特に印象的でしたね。


第三章については、いかにその当時の民衆が病んでいたのか、そしてルターとカルヴァンの教義がそうした民衆の心性にいかに合致したのかが分かりましたし、


第五章については、「逃避のメカニズム」が具体的に説明されすぎて、自分にもぶっ刺さりまくりましたね。今までの僕の生き方は「逃避のメカニズム」に従いまくってた、と言っても過言ではないなと感じました笑


ただ、第七章「自由とデモクラシー」で提示されていた「積極的自由」については、批判したくなる人も多いと思います。正直。


やはり私たちは社会的環境から強い影響を受けて生きているわけで、完全な「自由意志」など存在しない。


それにもかかわらず、そうした「自由意志」を前提とした「積極的自由」を掲げるフロムは、むちゃくちゃなこと言ってるんじゃないか、という指摘をされるのは仕方がないとは思います。


だけれども、フロムが一番に言いたいのは、


近代は「人間の目的=自分自身の救済(幸福)」という中世社会のイデオロギーに基づいて、人と人とが連帯意識を持って、倫理的に、幸せに生きることのできた時代ではなく、


「人間の目的=経済」というイデオロギーに人間が振り回され、人間が経済機構のための「手段」と化し、自分の意志をめちゃくちゃに抑圧され、振り回され、不幸になってしまっている


という事実だと思うんですよ。


この点を踏まえると、フロムが言いたいことをもっと分かりやすく言うと、


「環境」からの影響を「極力」受けずに、「自分の目的=自分の幸福」という「自発性」に基づいて「積極的自由」を生きることで、私もみんなも幸せになれるよ!!


ってことになると思うんですよね。



ただ、「積極的自由」を生きるにしても、相手方の「環境」がありのままの個人を受容してくれなければ、それは不毛な試みとなってしまいますから、結局は「環境」に合わせることが必要になってくるんだなあ、と感じました。


ただそれでもそれでも。それでもそれでも「環境」から離れた「自発性」「自由意志」「積極的自由」が幸せにつながることは変わらない!!


だから、それが実現されるように、自発的に生きようぜ!


っていうのがフロムの本当に言いたいことなんですかね笑
(めっちゃムズいですけどw)


でも、それは可能だと思います。LIBERはまさにそうした「積極的自由」が担保されているコミュニティだと思ってるので!(突然)
仕事場以外での積極的自由は実現できそうかもですね笑


ただただ。
フロムの言う、積極的自由を無制限に承認してしまう社会も考えものだと思いましたね。


なぜかと言うと、


・汚れ仕事を誰もやらなくなる。社会の均衡が保てなくなる
→みんながやりたい仕事、やりたくない仕事って、ある程度固定化されてますよね。
→「憧れの仕事」と「汚れ仕事」との間で、職業差別が生まれるのでは?


・みんなが「憧れの仕事」につけるわけではない→仕事には定員が設けられているから


・誰かしらが「やりたくない仕事」をさせられる→「やりたい仕事」ができている人と、「やりたくない仕事」ができている人との間で差別意識が生まれるのでは?


・仮に資本主義が消滅したとしても、我々の資本主義的マインドが根本的に変わらなければ、今までと同じじゃない?(それを促すSNSというコンテンツも存在するし)



と思うので!


こういう風に考えると、
なんだかんだで、資本主義社会ってそこまで悪くない社会なのでは、と感じました笑
実際にこの社会の中には、自発性に基づいて生きていらっしゃる方も多くいるわけですし!

変な終わり方になりましたが、最後まで読んでくださりありがとうございました!