本記事は、OSIRO社のコミュニティ献本企画に参加し、献本を受けて執筆しました。
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随分前に『私とは何か』を読み、「分人」という概念に触れたとき、なぜか円グラフではなく“ドーナツグラフ”の形状が頭に浮かんだ。
中心がぽっかりと空いた、あの形である。
外側の円環には、系列1、系列2……と、分人の役割に応じた構成比が表されるとして、では、その中心の空洞とは何なのか。
表面化された分人の構成比をいくら合算しても、なぜか100%にならないような、どこか気味の悪い感覚が残る。その空洞は、誰にも見られたくない、本人すら向き合いたくない、 得体の知れない何か。
作家とは、その中心部に潜む深く暗い領域に分け入り、命を削るような痛みを伴いながら、1枚また1枚と薄くスライスするようにして、言葉を紡ぐ存在である。そしてその連なりが文学作品となり、止めたくても止められず、果てしなく紡ぎ続けていく。
やがて、スライスする「中心部分」が尽き、はじめて円グラフが完成するとしたら、それは作家が天命をまっとうしたときであるのかもしれない。
瀬戸内寂聴氏が「あなた、それ、小説に書きなさい!」と語ったように、作家は何があっても書き続けねばならない。そこまでして苦しみ、ようやく生み出される文学とは、いったい何の役に立つのか。
「文学とは何の役に立つのか?」という問いに対し、私はすべての作家に敬意を表して、真摯に考えてみたいと思った。
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物語と最初に出会ったのは、おそらく母による読み聞かせの記憶である。 物心ついた頃にはすでに、自分で本を手に取り、登場人物の内面に深く入り込み、感情の起伏をともに生きていた。 幼い頃に読んでいた作家たちは、今思えばほとんどがすでに故人であった。
三浦しをん氏の『舟を編む』に、次のような一文がある。
死者とつながり、まだ生まれ来ぬものたちとつながるために、ひとは言葉を生み出した。(『舟を編む』P258)
言葉自体は、いつも気まぐれで、好き勝手に蠢き、すり抜け、あっという間に霧散してしまう。それを丁寧に捕まえて編み、形として遺したものが文学である。
しかし、書き終えた瞬間から、作品は作家の手を離れ、世に放たれていく。未来のどこかで、まだ見ぬ誰かが、生きる頼りとしてその作品を手に取る日が来る。 それがいつであり、誰であるかはわからない。
役に立つかどうかは、受け取った者に委ねられている。しかし、少なくとも私は、これまで文学によって生かされてきたと感じている。
生きるために文学が必要なのか、文学があったから生きてこれたのか。情動が先なのか反応が先なのか…少し違うが、ジェームズ・ランゲを思い出した。
今日が人生の最後の日ではないという前提を持ちつつ、同時に今日が最後の日であるつもりで言葉を紡ぎ続ける。 やがて本当に最後の日が訪れたとき、作家はその瞬間まで作家であり続けるのだろう。
死者が遺した文学は、誰かが生きるための地図である。
この先、生成AIがどれほど発展しようとも、過去に浮遊し霧散しかけた大量の言葉を捕まえて、それらしい組み合わせで物語をつくったとしても、それは文学とは呼べない。
今、ここにあるものの価値。
『本心』の朔也は、 それを理解していたように、私には思える。
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