はじめに
数年前、この本を本屋で見かけました。
「暇と退屈の倫理学?変なタイトルだなあ。この絵はなんだ?牛と女性??」
まさに本屋で「暇つぶし」をしていた僕は、タイトルと表紙に心惹かれて購入してしまいました。
一度通読して以来、しばらく本棚に眠っていたのですが、最近また読みたくなったので、読み返してまとめてみることにしました。
(読みたくなった経緯は、以下参照) 著者は、國分功一郎さん。哲学を専門にされてる方で、「中動態の世界」という本も好きなのですが、共感してくれる人がいたらうれしいです。
中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
本ブログの構成
さて、本書は注釈を含めると437pに及ぶ大作です。
簡単に要約してみましたが、かなり端折っても1053字でした。
もちろんもっと減らすこともできるのですが、著者の方も「過程を無視して結論だけを読んでも意味はない」と仰っており、あえて長めの要約にしています。
もしよければ、要約と感想部分だけでもザックリ眺めていただけたら嬉しいです。
その後の部分は自分の備忘録のために書いています。
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要約
人類は豊かになり、暇(働く必要のない時間)ができたのに、退屈に苦しんでいる。
退屈とは、「事件が起こることを望む気持ちがくじかれた」気分のことである。
(事件=今日を昨日から区別してくれるもの)
人間は日々いろんな刺激(サリエンシー)をうけながら生きている。サリエンシーばかりでは耐えられないため、そこに反復構造を見出して予測モデルを形成し、習慣を作ることでサリエンシーに慣れることができる。
あらゆる経験はサリエンシーであり、それは記憶の傷跡となって脳に刻まれる。習慣を形成して外的なサリエンシーが減ると、記憶の傷跡が活性化して、痛む。
その痛みこそが、退屈である。
退屈の歴史は古く、1万年前の定住革命以後、人類は退屈と闘わなくてはならなくなった。
その闘いは、大衆が労働で手一杯な時には有閑階級が主な担い手だったが、20世紀以降は大衆も退屈との対峙を迫られている。
現代の消費社会は、大衆の暇を搾取し、限界なき消費に追い込むことで回っている。消費をしても退屈はしのぎきれない。
生き物はそれぞれの主観的な「環世界」を生きている。同じ森の中でも、ダニはダニの環世界を、鳥は鳥の環世界を生きている。
人間はほかの生き物と比べて環世界移動能力が高く、バードウォッチャーとして森を歩くことも、昆虫学者として森を歩くことも、ただただ散歩することもできる。逆に言えば一つの環世界に浸っていられず、退屈しやすい。
人類は多くの場合、退屈と気晴らしとが混ざり合った時間(退屈の第二形式)を生きている。しかし「なんとなく退屈だ」という声に耐えきれなくなると、決断によって仕事の奴隷となることもある(退屈の第三-第一形式)。
決断してしまえば、「決断(仕事)の奴隷」として盲目的に従うだけなので楽だが、それは一種の思考停止なので望ましいとは言えない。ただし、決断せざるを得ないこともあるため全否定はできない。
本書における退屈と向き合うための処方箋は、「第二形式の気晴らしを深く享受すること」である。そのためには訓練が必要である。五感を研ぎ澄ませたり、教養を身に着けたりすることが肝要である。
その過程で、環世界にひたる(とりさらわれる)瞬間が来ることがある。それは動物になることであり、人間の宿命的な苦しみである退屈から逃れることのできる瞬間である。
退屈との向き合いは自分に関することだが、退屈と向き合って生きていくことができるようになれば、余った能力を使って別のことを考えることができる。自分のことだけでなく、他人のことを考えることもできるかもしれない。
感想
僕は退屈すると、「もし強盗が家に侵入してきたら、妻子をどう守るか」なんてあれこれ妄想を膨らませることがあります。
崇高な目的をもって、それにまい進する人は幸福度が高いそうです。
9.11のテロリストなんかも、イスラム世界のために使命感を持って突っ込んでいったのだとしたら、主観的には幸せだったのかもしれません。でも僕は、そこまで何かのことに突き進むことはできそうにありません。
でも本書では、そのような一見カッコいい「決断」よりも、気晴らしと退屈を生きる第二形式を推奨していて、自分の生き方を肯定されたような、そんな気持ちになりました。
これからも退屈を何とか気晴らししながら、物事を深く味わって、夢中になれる瞬間が来るのを待とうと思います。願わくば、誰かの苦しみ(退屈)を紛らわせることができる人になれますように。
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(以下、もう少し細かく本書の内容を記述しています。自分用の備忘録です)
序章~第一章:豊かなのに喜べない?
”人類は豊かさを目指してきた。なのになぜその豊かさを喜べないのか?”
本書の序章で、このような問いが発せられる。
豊かになると、時間やお金に余裕ができる。
そうすると「願いつつも叶わなかった自分の好きなこと」ができるはずだ。
だが、「願いつつも叶わなかった自分の好きなこと」なんてそもそも持っていたのか?
CMで宣伝された商品を買い、おすすめされた観光スポットに行くだけではないのか?退屈を嫌う労働者の暇が搾取されているだけかもしれない。
”大義のために死ぬことを望む過激派や狂信者たち。人々は彼らを、恐ろしくもうらやましいと思うようになっている。”
何か大きな目的のために身を捧げ、苦しむことをも厭わない人たち。その熱狂を冷めた目で見つつ、どこかうらやましく思う自分がいる。なぜそう思うのか?退屈だからだ。
第二章:人間はいつから退屈しているのか?
人類が誕生した400万年前から、ほんの1万年前まで、人類は遊動生活をしていた。
1万年前から、各地で人類は定住するようになる。
その理由は以下のように推察される。
気候変動
↓
生態系変化=大型動物の減少=狩猟だけで確保可能な栄養源の減少
↓
栄養を植物や魚に頼らざるを得なくなる
↓
季節性変動が大きい=貯蓄の必要性が増える
↓
定住せざるを得なくなった
さて、定住により、遊動生活時にはなかった(少なかった)問題が頻出する。
・ごみ問題:ごみは放り捨てるのが人類のデフォルトだった。
・トイレ:決まった場所で排泄するのは人類にとって不自然なので、幼児は大変。
・死者の埋葬:衛生的な問題から墓を作って埋めるようになる→死者に対する意識変化。
・不和や不満蓄積:環境変化が少ないと、蓄積しやすい。学校のいじめなんかが典型的。
・不平等の発生:貯蓄の格差は財産の格差を生む。
・退屈の発生:遊動による環境変化は刺激が大きく、退屈することは少なかった。大脳への負荷が減ることで、有り余る能力を持て余し、退屈することになる。
”定住民は自らの手で、退屈を回避するという定住革命を成し遂げなければならない。”
つまり、人間が退屈と闘わなければならなくなったのは、定住革命以後である。
第三章:人類はどう退屈と対峙してきたのか?
歴史的に、人類の大多数(下層階級)は退屈する暇がなかった。
退屈と対峙してきたのは有閑階級(レジャークラス)である。
彼らは暇であることを許された特権階級であり、パーティーをしたりウサギ狩りをしたりと暇を生きる術を身に着けていたのだ。
20世紀になると有閑階級が没落し、大衆もある程度の暇を得るようになる。
しかし、大衆の暇は搾取の対象であった。
資本家は生産性向上のために労働者に暇を与え、そして労働時間外でも労働者を監視した。
また、レジャー産業は労働者の暇な時間に金を使わせることで資本を得た。
これは現代でも同様と思われる。YoutubeやNetflixといった動画産業をはじめ、AmazonだってFacebookだって、僕たちの暇を奪い合っている。
第四章:現代の消費社会における退屈
贅沢とは、必要以上に支出を行うことだ。
「ボーナスが出たから奮発して高級な料理を食べに行く」のは、贅沢だ。
しかし、贅沢は一般に想定されるようなネガティブな面ばかりではない。
贅沢や浪費ができない状態は、必要最低限しか物を持てない状態であり、非常にリスキーである。そうした意味で、贅沢は、豊かさにつながる。
また、高級料理も腹いっぱい食べれば満腹になる。贅沢には限界がある。
一方、消費とは物に付与された概念や意味に対して支出を行うことだ。
最新の流行アイテムを買うとき、アイテムそのもの以上に「最新の流行」や「個性的」という意味に価値を持っている。流行が変われば、また新しい流行アイテムが欲しくなる。
こうした概念や意味は限界がないため、消費には限界がない。
したがって満足できない(≒退屈)から、さらに消費を生むことになる。
つまり、消費は退屈を生み、退屈は消費を生む。
第五章:どんな退屈の種類がある?
ハイデガーは退屈を3つに分類した。
第一形式「何かによって退屈させられている」
例えば、こんな状況である。
仕事の出張で、電車で田舎に来ている。
これから本社に戻り、残業をしなければならない。
田舎らしく、電車は1時間待ちだ。しかも周りには何もない。
仕方なく手持ちの本を読んだり、スマホをのぞいたりするが、それにも飽きてしまった。
時計を見ると、まだ15分しか経ってない・・・
この時、私たちはぐずつく時間に引きとめられている。
その状態はとてもむなしく、空虚のままに放置されている。
〈空虚放置〉状態では、周りに物があっても、物が私たちに何も提供してくれない。
第二形式「何かに際して退屈している」
例えばパーティー。
パーティーそのものが気晴らしで、それなりに楽しいのだけど、でもどこか退屈を感じる。
つまり気晴らしと退屈がまじりあったような状態である。
第三形式「なんとなく退屈だ」
シンプルだが、ゆえに強力で深い退屈。
非常に苦痛を伴うため、何とか逃れようとして人間は仕事に打ち込んだり(第一形式)、気晴らしをしたり(第二形式)する。
第6章:ほかの生き物も退屈するのか?
ユクスキュルは環世界という概念を提唱した。
これは、それぞれの生物が1個の主体として経験している、具体的な世界である。
例えば、ダニは、「酪酸のにおい」「37度の温度」「体毛の少ない皮膚組織」の3つのシグナルだけで生きており、それ以外の事象はダニにとって存在しない。
また、環世界では時間概念も異なる。人間にとっての一瞬は1/18秒で、それより短い時間は知覚できない。ほか、ベタ(魚):1/30秒、カタツムリ:1/3-4秒。
環世界移動能力は人間は非常に高く、ダニは低い。
逆に一つの環世界にひたる能力は人間は低く、ダニは高い。
おそらくは、人間の中でも子供はひたる能力が高く、大人は低いと思われる。
第7章:決断って大事?
ハイデガーは「退屈しているなら決断しろ」という。
決断が必要なこともあるが、実は決断の奴隷になれば考えずに済むため楽であり、それは一種の思考停止である。
決断は第三形式-第一形式である。
付録:傷と運命
習慣の、反復構造の発見には、他者を媒介しないと見つからないことも多い。
だから、人間は必然的に他者を求める。