【自分的要約】
人間は多くを視覚に頼って生きており、視覚障害者は不幸な存在とされがちである。健常者のためにデザインされた社会において視覚障害者が生きづらいのは動かしがたい事実であるが、本書では健常者と視覚障害者の違いを身体論的に比較することが主題となっている。
ちなみに、視覚障害者の身体というと、フィクションなどで時々描かれるような、超人的な、やれ聴覚が鋭敏だの触覚がすごいだのという話になりがちだが、そうではない。

・健常者は見える分、どうしても視覚に囚われてしまう。その結果視覚的に誘導・誘惑されてしまうこともあれば、見えない部分(=死角)に無自覚になってしまうこともある。
一方で、視覚障害者は見えないので、ある意味で視覚から自由だ。触覚や聴覚などで情報を得て、足りない部分は想像力で補う。そこから出る発想は、時に健常者の想像を超える。

・見ることは目の専売特許ではなく、「透明」は触覚でも感じることができる。五感は明確に分離されているわけではなく、オーバーラップしている。

【感想】
「視覚がないから死角がない」というのは言い得て妙だなと思った。確かに特に現代人は視覚的情報が氾濫しすぎて、逆にシャットアウトすることの重要性もうたわれ始めている。視覚をめぐるパラドックスは面白いなと思った。

実は触覚(狭義の触覚ではなく、正確には体性感覚)の方が、視覚以上に人間の最も原始的で最も重要な感覚なのでは、という仮説が浮かんだ。「コロナ時代の哲学」という本において、コロナ下で失われる人との接触が、実は非常に重大な喪失を生むのではと指摘されている。かのヘレンケラーも耳や目の代わりに触覚をフル活用して活躍した。マインドフルネスでも触覚(や位置覚や温痛覚)を大事にしている。

視覚を過信せず、自己の触覚を大切にしたい、なんて思った。