夜と霧 新版

言わずと知れた名著で、@アバタロー さんも動画にされてます。

本書の要約などは上記をご参照いただくこととして、
僕は、気になった部分を引用し、自分なりにコメントをつけてみることにしました。


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心理学的探求のほんとうの危険は、それが個人的な調子をおびることではなく、かたよった色合いをおびることにある

心理学的な知見はあくまでフランクルが語る文脈においての意味であって、どんな場合においても無理やり当てはめてしまうことは適切でない、と。




殴られる肉体的苦痛は、わたしたちおとなの囚人だけでなく、懲罰をうけた子どもにとってすら深刻ではない。心の痛み、つまり不正や不条理への 憤怒 に、殴られた瞬間、人はとことん苦しむのだ。

ワクチンの注射を打たれるとき、痛いには痛いが我慢できる。痛みの必要性を理解していれば、それは心の痛みを伴わない。
子どもをワクチン接種に連れてくる親御さんの中には、ワクチンを打つことを子どもに隠して連れてくる人がいる。予め伝えておくと連れてくるまでが大変だからなのだろうが、そういう子どもは大抵すごく抵抗する。痛みを与えられる理由が納得できない状況だと、心の痛みを伴う。
・・・ちょっと違うかもしれないが。




そして私は知り、学んだのだ。愛は生身の人間の存在とはほとんど関係なく、愛する妻の精神的な存在、つまり(哲学者のいう)「 本質」に深くかかわっている、ということを。愛する妻の「 現存」、わたしとともにあること、肉体が存在すること、生きてあることは、まったく問題の外なのだ。

僕は妻と子と3人暮らしだが、仮に、何らかの事故で妻と子を失ったとする。
大いに嘆き悲しむだろうが、それでも人生に絶望して自暴自棄になったり、加害者に復讐しようとしたりすることはしたくない。
精神的な存在を悲しませたくはない。理想的には、こうありたいと思う。

(金田一少年の事件簿 悲恋湖伝説殺人事件    より)

 

かつてドストエフスキーはこう言った。 「わたしが恐れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ」

ゴッホとテオは彼らの苦悩に値する人間だったんだろう。




「苦悩という情動は、それについて明晰判明に表象したとたん、苦悩であることをやめる」

先が見えない状態は、先が見えないからこそ不安なのであって、先が見えるようになれば、それが険しい道のりだったとしても、さほど不安ではなくなる。
死ぬのが怖いのは、死というものを経験したことのある人が現世のどこにもおらず、死ぬというのが具体的にどういう経験なのかが誰にもわからないから。





ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。

人生に生きる意味を問うのではなく、むしろ人生から生きる意味を問われている。
7つの習慣風に言えば、具体的な状況において、どう反応するか?が問われている。

どんな状況であってもある程度一般化可能な、自分なりの反応方程式がミッションステートメントと考えるなら、それを想定しておくことにもそれなりに意味があるだろう。

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上記の@きよん さんのブログのコメントで自分のミッションステートメントを書きました。

「感謝を忘れず、贈与に気づこう。贈与に気づく想像力を養うために学び続けよう。」

本書を読んで改めて考えてみました。

人生で最も大事なのは、贈与に気付くことだ。
   
贈与に気付き、メッセンジャーになろう。
    贈与に気付く想像力や感性を養うために学び続けよう。
    辛いことだって、いつか贈与になるはずだから。」

(もっとシンプルに短くしたい気もするのですが、このくらいの長さになりました)

辛いときこそ、人の優しさが胸をつく。
孤独で寂しい夜に聴く歌は、心に響く。
辛いことには、贈与に気付きやすくする作用があるのかもしれない。
そうであるならば、辛いことだって、ある意味で贈与なのだ。

もちろんだからといって、やみくもに辛いことを称賛するわけではない。
辛いことがなくたって、想像力や感性で贈与に気付くことはできるはずだから。

*贈与贈与と連呼しているのは、下記書籍の影響です。


あまりまとまりがありませんが、以上で終わりです。
お読みいただいた方、ありがとうございました。