不寛容論: アメリカが生んだ「共存」の哲学





【本書を元に考えたことのまとめ】

他者へとりうる態度は大きく4つにわけることができそう。

①他者の思想や行為に同意する状態(Sympathy、情動的共感):一番快適な状態。

②他者の思想や行為に同意できないが、理解できる状態(Empathy、認知的共感):本書で言うところの水平的寛容に近いか?

③他者の思想や行為に同意も理解もできないが、仕方なく存在を認める状態:伝統的寛容。最低限の礼節は必要。

④他者の存在自体を是認できず排除せざるを得ない状態:不寛容。共同体や自己の維持のために、排除が必要になることもある。

①や②ができれば葛藤は少ないが、当事者になると否応なく③や④にならざるを得ないこともある。
また、他者の行為には④、思想には③などと分けて考えることもできる。



【要約①アメリカ独立前の物語】

アメリカ独立前、ピューリタンたちは新しい土地で0からすべてを構築しなければいけなかった。
政治や教会を作るために、神と契約を交わし、自発的に同意したものがメンバーに加われた。それはメンバーの自発性、自由を重要視する姿勢であった。しかし、それは逆に、既存のメンバーの同意なしには仲間になれないことをも意味していた。

つまり、自由な社会集団をつくるには、どうしてもこの不寛容さを軸にしなければならないのである。    43p


これにより、ピューリタンの教えを信仰しないバプテストやクエーカー教徒は、町への入植を断られたりすることになった。
本国イギリスでは英国教会に迫害されていたピューリタンたちだが、新天地においてはバプテストやクエーカーを排除する側に回るのである。

本書の主人公、ロジャー・ウィリアムズは熱心なピューリタンであったが、植民地政府・教会と対立する。
 
彼は信仰の自由を重要視し、そのために政治と宗教は分離して考えるべきだと主張した。
彼の主張は危険視され、植民地から退去させられてしまう。

追放された彼は先住民から土地を譲り受け、そこに新しい植民地を開拓する。
そこには他から追放された人たちが次々と集まり、ウィリアムズは彼らのまとめ役を担わざるを得なくなる。
批判者から建設者となった彼は、政治には従うように人々を統制しつつ、宗教的には自由を許容するようなルールを構築していった。






【要約②寛容と正義】

寛容論の分野では2種類の寛容がある。

①伝統的な寛容

相手を是認せず、その思想や行為に否定的であり続け、できれば禁止したり抑圧したりしたいが、そうもいかないので、しかたなくその存在を認める、という態度    349p

これは相手の価値を認めず、かつ恩を着せる態度であり、相手側にも好まれない。
相手が感じる嫌悪感を少しでも減らすには「最低限の礼節」が必要である。

②水平的寛容(他にも色々呼び名がある)

相手を承認し敬意をもって包含的に扱う態度    349p

これは一見理想的だが、常に可能なわけではない。
問題が他人事であればともかく、自分事となると話が変わる。

寛容の問いが自分自身に及び、深刻な利害が身の回りにひた寄せてくると、ようやくその不愉快さに思い至るようになる。    348p

また、「寛容の強制」につながることもある。


また、寛容論と平行して重要なのが正義の概念である。
現代政治学者ウェンディ・ブラウンは、寛容は「脱政治化」の言語だと述べる。

本来なら政治的に解決されるべき正義の問題が、他者への感受性とか他者の尊重などという個人の情緒や感性の問題にすり替えられてしまう    354p

例えば、LGBTQの問題なんかは、もちろん個々人の受け入れも大事だけど、同性婚を認めるかどうかなどの政治的な課題もある。それを一緒くたにしてはいけない。


【感想】

本書が紹介されているサイトを見て、そこで紹介されていた映画も見てみた。

Amazon.co.jp: ある少年の告白 (字幕版)を観る | Prime Video

強制施設に送られた同性愛者の息子と、その家族の葛藤が描かれている。
牧師である父親は、信者としての自分の信念と、息子への愛情とで揺れ動く。

僕は熱心なクリスチャンでもないし、(多分)身内にジェンダー問題で苦しんでいる人はいないので、父親の葛藤を自分事として受け止めるのが難しかった。


総じて、伝統的寛容や不寛容が必要なほど、僕が同意も理解もできないような事態は、幸いにして身近では思いつかなかった。

身近でない話題だったら・・・
例えばウクライナ侵攻は、勉強するとロシア側の事情も一応の理解はできたつもりになったので、認知的共感はできた。もし自分がウクライナ在住であったなら、当然不寛容の対象である。
訪問診療中の医師を殺害した男性は、生きづらさを慢性的に抱えていて世の中に恨みがあったり、(愛情や経済事情ゆえに)親の死をどうしても受け入れられなかったり・・・という理由があったのかもしれない。(ネットで調べても本人が動機を詳しく語っているものは見つけられませんでした)    これも一応の認知的共感はできたが、もし自分や身の回りの人が事件に巻き込まれていたら、確実に不寛容の対象となるだろう。


*今回のブログと関連しそうなブログ:
@みぃ*3期 さんが寛容な社会についてコメントしてくださったのもあり、今回本書を読んでみました。