本記事は、OSIRO社のコミュニティ献本企画に参加し、献本を受けて執筆しました。
私は先月だったか、この講演会の動画を観たのです。
第1印象は
文学を、正気であるために読むって?どういうこと?
そこに妙に引っかかってしまい、
きちんと、、というのかしら?耳を傾けることができず、動画を何回か聞いても、内容が腑に落ちなかったんです。
動画を観た時には
今の世の中で、文学は正気であるために、読まなくてはならない。この世の中をまともに生きるために、文学はある。まともに生きるため、文学を読んで役立たせることが大切な課題なのだ。と言われてるような気がして反発がありました。
私は平野啓一郎氏の小説を一冊も読んだことがなく、予備知識ゼロ 関心がありませんでした。
今回、この機会を頂いて
今一度、読み直しました。
【文学はなんの役に立つのか?】で
印象に残った箇所はいくつかあります。
例えば
社会の機能の一部 7頁
平野氏の言葉で文学について書かれた部分で
その時に 僕たちはやはり 役に立てなくても価値があると言い続けることが一つは大事なことなんだと思います。
ご自身の三島由紀夫氏とその作品の考察の例を出されて
文学と言うのは作品を 通じて 共感できない 作者のことを考えるという一つの手立てにもなっている。
おかしいということを間違っているとか 稚拙 だと思う前に、彼の人生とその前後の作品の中でずっと考えていくともう一段 深いところで行っていることが見えてきます 。文学はそういうことを僕たちにトレーニングさせてくれます。
と述べているところなどが印象的でした。
この本の全体をほぼ通読した今、
その文学の世界を作家として歩まれてきた
平野氏は文学に対する役割を求める読者の現状に対して、今後、作家として
何ができるのか、と、模索されているのかな?と思いました。
その応えとして【本心】の執筆にも繋がっているのでしょうか。読んでみたいです。
今回の機会は、
文学の役割とは何か?それにも、直接答えられる作品を今の読者は求めてはいませんか?
では、その役割とは、私たちそれぞれに
とって何かを考えてみましょう
と、問いかけているように感じました。
そう言えば、
文学は、まあ、面白くて、価値はあるかもしれないけど、で、何の役に立つの?
あまり、直接、役に立つことってないよね。
自分はあんまり小説とか、詩とか読まない
役立つ本が優先になるから。
一般教養つくかなっていう感じで読む
そういう言葉を他者から聞くと、
中々答えられず、モヤっとしました。
自分が理解されてない気がした時も
あります。
さて、今回の読書体験の一部からお話します。
1章 文学の現代性
の各エッセイを読んでいくと
1990年代〜2024年までの短編集みたいで
私の場合は1986年〜2024年まで
自分の生身の体験が蘇り、
その時の自分、社会との関り方
感じた感情が再び思い起こされました。
その一つを描いてみます。
こんな感じです。
1986年
あれは表参道で
私は雨に濡れたくない。と、考えて
恋人が行こうよ。と、
手を差し出したその手を繋ぐのを躊躇った。
傘がさしたい。
このくらいの雨なら大丈夫だよ。
すぐそこまでだから。
私はこの人に結婚を前提に交際しようと
言われ、私なりに、時間をかけて承諾している最中だった。私は、その男性が好きだった。理由が良く分からないくらい好きだった。しかし、若かったせいもあり、
じっくり考えたかった。
相手は待つと言ってくれていた。
私とこの人の間に、子どもが
生まれるかもしれない。と、
私は
漠然と思った。
それを意識させたのは、なんと、
1986年のチェルノブイリ原発事故だった。
何かおかしな話だ。
放射能が含まれているかもしれないこの雨を無防備に浴びてはいけない気がした。
後で、後悔するとか、心配したくない。
私は、今も、これから先も、遺伝子が損傷するような被害に、自らをさらしてはならない。
今までにない、悩みのようなものがモヤモヤと湧いてきた。
その時の自分をリアルに思い出す事ができる。全然、外からは、分からない私が、
社会環境の影響により、
別の私が発動した瞬間だったように
思います。
自分だけではない、まだ見ぬ子どもという
他者の未来を考えた瞬間。
これが、私の本格的な分人化の予兆のように
思います。
今から振り返ると
あの時の
あの自分の価値判断には
文学経験の積み重ねの影響がある。
私は、あの時、あの煩わしい出来事と、
しっかり向き合えた自分を肯定する気持ちがある。
その根底に文学の影響があると、
思うのです。
1990年代〜2025年まで
節目 節目で前代未聞の事件や災害が
沢山ありましたが、
その時、どんな風に社会と関り、どんな行動を取り、どんな感情を持ったか、どう捉えたかは、それまでに培われた価値観が大きく影響しています。その価値観を養ってきたのが、私の場合 自分の文学における体験と、実際の体験の融合かなあ。と、第1章を読んで思ったのでした。
それから、エッセイの中で一番のお気に入り
の箇所は
Ⅲ 文学と美
ボードレールの 女 性観
その一元性と多元性 283頁〜です。
私の読書 メモには、全文書き写すんではないか というぐらいに 本文のメモが残っています。
「多様性さ」を「生の必須の条件」とし、
芸術の多彩な産物の中には学校の規則や分析から永遠にはみ出すような何か新しいものが存在するということはそれほどに真実を強調する
驚き これは芸術や文学によって引き起こされる大きな喜びの一つであるが、 それも 累計や感覚 そのものの多様さから生まれるのだ
ドラクロワ 1854年 7月15日号 両 世界 評論
美の多様性について
本当に美しいものを前にした時には
ある密やかな 本能が我々の偏見や 嫌悪感を超えて その価値を我々に告げ それを 賛美 せざるを得ないようにしてしまう
なぜそれらの絵画を美であると見做すことができるのか
それは人間の内部にある
偉大なものを前にして戦慄する あの奥深い反響の場所
のゆえであり この体幹を伴った 本能的な喜び こそが 対象をして 美を認識せしめているのである
この文章の脇に
この本について私の読み方のアイデアが書かれています。
この本に関してはコンステレーション的なアプローチをするのはどうだろう 布置だ。
私が体験主義者であることはわかった。
多分そうだ。
そして、1986年からになるが、本当に社会というものを感じて、関り始めた時から、分人化というものを私はしてきたのだろう。
興味深いことだ。
そうしなければ、まともに生きて行けないくらい、結構大変な世の中だった。
私は、いつか、それを自分のために記したい。
だが、分人化は、完結した考えとは
思わない。更なる発展をするのではなかろうか。
それから、星星のようにこの本のエッセイと講演録が
私の内界に点在するのを許してみよう。
その時々に対人化なることを試みても良い。それが、私自身の物語の意味を見つけ出すことにつながったなら、それを観ていこう。
河合隼雄さんの京大での最終講義が、コンステレーションについてで、その動画を観てから、私は、心理学でいうところのコンステレーションの捉え方に興味を持ち続けています。
最後に、今のところの
私にとっての
文学の役割を述べてみます。
文学の役割は
私にとって詩と物語を紡ぐこと
文学の世界には物語と詩を紡ぎ続けていってもらいたいのです。
そこから私は何を求めているかというと、
①独自の価値観を育むための知的栄養素として
②人間としての自分を活かすための精神的栄養補給として
③自分の抑圧している側面を解放する
精神衛生的な娯楽として
( ダークな部分を語り合うことも文学作品を介してなら、やりやすいと思います。 )
新たなる物語と詩と出会った体験を
自分の内面的な土壌の糧とし、
物語を読む力と創造する力を身に着けたい。
私たち人間は物語を紡ぎ続けることにより
存在すると思うから。
その土壌から何を能動的に創出するか
何が受動的に生み出されるかは、
その時のお楽しみですね。
それぞれの人のために
誰にも柔軟性に富んだ役割を担える可能性があるのが
文学の良いところであり、危険なところでも
あるかもしれません。
また、誰かの役に立たないということであっても良いという在り方が許されているのも
良いんじゃないかと思います。
そんなことを、今回、この機会を頂いて
考えました。
ありがとうございました。
この機会に心より感謝申し上げます。
追伸・読みたいと思った本は
日蝕 と 本心
ボードレールの美術批評
森鴎外 寒山拾得
田村俊子 の著作 です。
#文学はなんの役にたつのか
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