1/28に開催された「サイエンスについて語りたい!」というイベント参加後のアウトプットです。
https://bc-liber.com/events/d730cb8fa16e
僕は、哲学や社会学などは大学時代に勉強していましたが、いわゆるサイエンス(物理学や生物学など)などの領域に深い知見がなく、専門の方のお話を聞きながら、それぞれの分野について知るきっかけにしようと思っていました。

ただ、議論が始まると出てきた論点は下記のようなもので、「哲学」に近い議論になっていきました。
・科学者ではない世間の方々は、「科学」というものについてどう思っているのか     
・そもそも、「文系」や「理系」という分け方は適正ではない。
・「サイエンス的な探究」や「アート的な探究」はあれど、それは探究の仕方であり学問領域に紐付けるべきではない     
・大学や高校のあり方とは



しかし、参加者の方々はみなさん「科学」をお仕事にされている方も多い中で、なぜ「哲学的な」議論に着地するのか。そもそも今日は「科学」の話を聞きに来たのではなかったのかと思っていたころ、@まりこ さんからハッとする指摘をいただきました。

科学の権威を悪用して、人を扇動するためにデータや研究を恣意的に扱うよう人ほど、科学の勉強をしておらず、「科学に対する忠誠心」が欠けている。そして、科学を神聖化してそれを疑う習慣がない人々が、このような権威に飛びつき扇動されてしまっている。


なるほど、科学も使い方を考えるときは、まさに人間への理解が必要であり、哲学が必要なんですね。


その後、別のルームに移り@-- さんから「宇宙」について語っていただきました。そもそも宇宙の法則を研究する物理学も、その時代ごとに受け入れられている理論は変わってきている。そして今は、下記のような考えが主流のようです。

時間」という概念は宇宙どこにでも絶対的なものではなく相対的なものである。しかし、今の物理法則は、その相対的な「時間」が考慮されていない。今の物理法則からわかるのは、時間を考慮しない、ある事象(概念)と事象(概念)の関係のみであり、宇宙全体の真理ではない。


僕は物理学の勉強ができていなかったのですが、宇宙を説明する数式や理論を見ると、「おー!すげー!この森羅万象の宇宙がそんなシンプルに表現されるのか!!」と感動してしまってたわけですが、どうやらその感動してきた数式や理論もあくまで一定の条件のもと正しかっただけなのだなと理解しました。

そこで、思ったのは、何事も完全に理解することはできないなのではないかということです。

例えば、「宇宙」というものが広がっているとして、「宇宙の際」は観察可能なのか。
答えは「人間がそのときに持っている知見で、そのときの人間の技術で観察可能なもの」が「宇宙の際」なのだろうと思います。ということは、人間の知見や技術が成長するほど、「宇宙の際」は広がるでしょうし、もしかしたら縮むこともあるのかも?


こう考えていくと、科学は人間が行う「アート」の一種であるわけなので、人間という制約がついて初めて成り立つものなのだなということなんですね。


さてさて、そこで冒頭の「宇宙の際を意識できているか」というお話ですが、宇宙の真理を明らかにしているように見える科学は神秘的で、その権威にすがりつきたくなる気持ちになります。それは医学も生物学も物理学もすべて同じなのでしょう。

でも、その科学もあくまで人間が行うもので、なにかしらの制約(=際)があるはず。

科学をすべて疑っていたら何の薬も飲めない。
科学ですべて説明されていないものを拒否していたら 、 大怪我をしたときに全身麻酔を打ってもらえない。

大事なのは、宇宙の際(=科学の制約)を知りつつ、その「際」を広げてきた科学の巨人に感謝して、科学という人間の知恵の恩恵を受けることなのかなと思いました。