坩堝にハマるまで

「生きがいについて」のアウトプットを出そうとしていたら、大きく脱線してしまった。
「生きがい」を真剣に考えていくと、そもそも生きがいってなんだ?という坩堝にハマり、生きがいという事象を発生させるためには何かしらの行動を行わなければいけない、という発想になり、じゃあ、どういう行動があるのか?という思考にいきつく。
「生きがい」を感じるためには他者への貢献感が必要だから、どのような行動が貢献感を生み出すのだろうか?利他的な行動?じゃあ、利己的な行動には貢献感が伴わないのか?ちょっと考えてみよう。

以下、坩堝にハマっていく

人が何か行動を起こすとき、その行動は利他的であるのか、利己的であるのか、それともその両方かに大別できるとする。利己的な行動とは、食事をしたり、眠ったりといった生きるために必要な行動や、英語を勉強したり、映画を観たりと、自身の人生を充実させたりする行動を含める。ここで、更に突き詰めて考えると、ボランティアを行うなど、直接的には自身に対して何ら利益がない行動ですら、自身の人生を充実させるという観点にたって考えると、利己的かつ利他的な行動と分類される。少しでも利己的な行動の要素が含まれているのであれば、そこには貢献感が含まれると考えられよう。それでは利他的な行動とはなんだろうか。

例えば、今あなたの目の前にスイッチがあり、何も考えずに、ただ、スイッチを押して欲しいと看板に書いていたとする。あなたは興味本位から看板の指示通り、スイッチを押したとしよう。ここで、あなたという観測視点から見ると、単にスイッチを押しただけであるが、実はそのスイッチの先には電気椅子が繋がっており、死刑執行のスイッチだったとする。社会という視点から見れば、大量殺人鬼の死刑を執行したという大仕事を完遂したことになる。つまり、あなたは社会に多大な貢献をしたことになる。しかし、あなたという視点から見たら、死刑執行をしたのは他人であり、あなたであるという自覚はない。あなたは興味本位でスイッチを押しただけなのだ。このような行動は利他的な行動といえるのではないだろうか。しかし、ここであなたは貢献感は得られるのだろうか?いや、得られないだろう。
つまるところ、貢献感を得るために、究極的に利他的な行動を目指していっても、利己的な要素が一切含まれない行動には貢献感が全く得られないという身もふたもないことになる。

この考察の中で得られた副産物として、行動を行う自身の観測視点というものが得られた。利己的、利他的、利己的かつ利他的行動の分類は行動を行う人自身の観測を行う視点で分類が変化する。逆に考えるのであれば、どんなに些細な行動であろうとも、観測の仕方を変えることで、小さな行動でも大きな利他的な行動にみえ、それだけ大きな貢献感が得られるということになる。例えば、年収が2千万円を超えるビジネスパーソンが千円寄付を行うのと、お小遣いが月三百円の小学生が千円寄付を行うのとでは、普通に考えて小学生の方が大きな貢献感を得ることができるだろう。社会的にみれば、どちらも同じ千円の寄付だが、両者の背景がまるで違う、つまり、観測視点が違うため、貢献感は異なるということになる。

アレ、結局何を考えていたのだっけ??<ー今ココ