【はじめに】
本ブログはOSHIRO社の献本企画への参加に伴い、平野啓一郎様の著書「文学は何の役に立つのか?」の献本により執筆しております。ブログの投稿に当たって、今回の読書体験を与えてくださった平野啓一郎様、OSHIRO社の皆様、ブックコミュニティリベル運営の皆様に厚く御礼申し上げます。
なお、「文学は何の役に立つのか?」という問いに対する私の答えは平野様の答えと相反する点が多々あることから、少なからず批判的な論調になっている部分がありますが、これは私の率直な見解を述べたものであり、平野様の見解を否定する意図はないことをここに記します。
以下、本文となります。
「文学とは何の役に立つのか?」この問いかけは僕にとって非常に大きな意味を持っている。少年時代に「こども世界文学全集」に触れて以来約半世紀、付かず離れずではありながら文学の世界に関わってきた僕にとってこの問いは、大袈裟に言えば「お前のこれまでの人生は何だったのだ?」と問われているに等しい。軽々に答えることの出来ない問題である。
さて、実際のところ自分にとっての文学とは何なのだろうか・・・、そう自問自答していたところ、その重要なヒントを記した古典を最近教えていただいた。生物学者ヤーコブ・ユクスキュルの「生物から見た世界」である。
本書においてユクスキュルの提唱する「環世界」という概念。それはこの世界のあらゆる生物は、その生物固有の目的や感覚によって世界を捉えており、彼らの見ている世界は必ずしも同一ではないことを示している。全ての生物はそれぞれの環世界に生きており、そこから世界を眺めている。広義には同一の世界であったとしても、そこに生きるものは皆異なる世界の中で生きているのである。
このことを平野氏の著書「文学とは何の役に立つのか」の中でも語られている、「あいちトリエンナーレー表現の不自由展ー」に関する一連の騒動を例として考えてみたい。事件の詳細をここでは述べないが、この事件について平野氏は本文中で「特定のイデオロギーを持つ人間が政治権力や暴力を用いてこれはアートじゃないということをゴリ押しすることは間違っている」との見解を述べている。だが僕のこの事件に対する見解は違う。「特定のイデオロギーを持つ人間が芸術や表現の自由を盾に取ってヘイトや暴力を正当化するのは間違っている」、平野氏の見解とは真逆である。
今この話を持ち出したのは平野氏の意見を批判するのが目的ではない。僕が言いたいのは、同じ「表現の不自由展」問題にしても平野氏と僕とでは立ち位置や価値観によって全く異なる見解を持っているということである。つまり平野氏と僕はそれぞれ「異なる環世界で生きている」のだ。そしてこれこそが文学の持つ意味だと僕は考える。
「異なる世界を感じ、それに触れること」
文学に意味があるとするなら、それは自分が見ていなかった世界の存在を感じ、触れることで数多の世界と繋がることなのではないだろうか。その営みによって人の生きる世界は広がっていく。そうして繋がった世界、これまで自分が見てこなかった世界によって人は新たな気づきを得るかもしれない。異なる環世界の誰かの言葉は人の感情を動かし、時にはその価値観、人生すら変えることがあるかもしれない。間違いなくその力が文学にはある。
ではそれが文学の役割なのだろうか。平野氏は本書の中で「苦しい現実にある者が文学に心慰められ、その現状を受け入れてしまうようであれば、それは社会を変革するような政治的アクションに何ら繋がらないのではないか」との問題提起をされている。人々の心を動かし、理不尽な社会に抵抗し現状を変革する原動力となる役割を文学は担うべきなのか?僕の答えは「否」である。
文学の力を政治的行動に繋げていく、それは即ち「文学の力を利用して作者の掲げる政治的正しさに読者を誘導する」ことに他ならない。かつて毛沢東は共産主義思想の正当化のために魯迅文学を利用した。文学とは異なる分野ではあるが、ヒトラーは国威昂揚のためにワーグナーの音楽を利用した。文学には感動によって人の価値観を揺さぶり、現実を変える行動に繋げるだけの力がある。だからこそ、それを恣意的に利用し他者を誘導するような使い方は許されない。このように言うと「強者や権力者がそれを使うことは許されないが、弱者が強者の権力と暴力に立ち向かう武器としてそれは必要なのではないか」という反論があるかもしれないが、当事者に都合良く強者と弱者を使い分けるような考えに僕は賛同しない。毛沢東もヒトラーも最初は反権力、弱者の味方を標榜していたのだ。
文学には人の感情を動かし、その価値観、人生感を揺さぶる力がある。それはある時には世界を変える程のうねりを生み出すこともあるだろう。だが、文学が主体的にその役割を担うべきではないと僕は考える。
世界に対する文学の役割、 喩えて言うならそれは小さな瓶に手紙を詰めて海に流すようなものではないだろうか。自分の見てきた世界をあてのない誰かに向けて送ること。そこに語られたものは時間を超え、空間を超えて異なる世界へと旅立っていく。もしかしたら誰の目にも留まらず海の藻屑と消えてしまうかもしれない。運良くどこかの浜辺に流れ着いたとしても、拾った人間は一顧だにせずに打ち捨ててしまうかもしれない。だがそれでもいい。本書の中で平野氏は「文学は何の役に立つのか?」という問いに対し、「役に立たなくていい。役に立とうなどと思っていない。」という強弁を使う、従来の作家像を取り上げている。しかし僕が思うに彼らはそう言いながら、何処かの誰かが偶然にそれを拾い上げることを夢想しているのではないだろうか。自分の文学が誰かに共感される。場合によっては誰かの思想や人生すら変えてしまう。そんな烏滸がましいことは望んでいない。それでも異なる世界に向けて自分の言葉を発信し続ける。いつかこの声が誰かに届く、そんな奇跡のような瞬間を夢想しながら。文学の役割はただそれだけでいい、僕はそう考えるのだ。
#文学はなんの役にたつのか
#BookCommunityLiber

2025/07/21 13:10