本記事は、OSIRO社のコミュニティ献本企画に参加し、献本を受けて執筆しました

本当は、この本を通して「文学とは何か」についての全体的なレビューを書きたかったのですが、1/3ほど読み進めたところで、「今じゃないかも」と思い、私はページを進める手を止めてしまったのでした

表題作については一応読みました。ので、こちらのブログでは、文学は何の役に立つのか?について語りたいと思います。読了できなかった私についての、個人的な、記録です



きっかけと期待


▼文学は何の役に立つのか?
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ミーハーな気分で、献本企画参戦したわたくしです。ちょうど「私とは何か」という本を読んでいたこともあり、平野啓一郎さんという名前に自然と目が留まりました (2025年7月21日読了いたしました。)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書 2172)
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彼の小説を読んだことはなかったのですが、(某SNSでの投稿などを通じ)「問いを投げかける作家さん」だな、という印象を持っていました(&ChatGPTがそう言っていた)

この本でも、明確な答えではなくとも、驚くような問いかけに出会えるのではないかと期待がありました



読み進めて感じた“なじめなさ”


しかし、読み進めるうちに、どうにもなじめない感覚が強くなっていきました
献本していただいたのに(読了できない)という罪悪感。約束してしまったし、ブログを外部公開にして、7月25日までに何かを書かないといけないという焦燥感が募るばかりでした

言い訳させてください。笑

この本は全体を通じて、「文学が役に立っているか」の問いを投げかけているのか。それとも、単純に平野さんのこれまで書いてきた文章をコンピレーションしているものの列挙なのか、主題がうまくつかみきれませんでした

表題の後に続くエッセイやそれらのテーマは多種多様時系列も過去に行ったと思えば、また未来に連れ戻される感覚幕の内弁当のようにも見える…けど、鮭の隣に、ショートケーキが載っているようにも見えてしまう。もしくは私がただの『コンセプト厨』なだけなのかもしれませんし、このような違和感を感じること自体が問いなのかもしれませんが

もう少し具体的に言うと、6月にちょうど読み終えた遠野遥さんの『改良』(河出文庫)に書かれた平野氏の解説が、本書でも出てきたときに、読むのをやめました

(ちなみに『改良』自体は、言葉を選ばず言うなら、バチクソ面白かったです。彼の作品は、本が出るたびに買いたいと思える、最近推している作家さんです。)

「河出文庫」さんで出版された(すでに書かれた)解説が、「岩波書店」の本で焼き増しされているのにちょっと違和感を感じてしまった上に、この本、2,750円 (税込)もするの高くないですか笑。献本レビュー企画じゃなかったら、手に取ってなかったかもしれない

なじめなさという点で、もう一つ

平野氏がしばしば他の文学作品のエッセンスを引用しながら語るスタイル、文学に親しんでいる読者には豊かに響くかもしれないのですが、私のような文学初心者にとっては、むしろ混乱を招く要因になっていました。引用が多層的な方がよく見えるかもしれませんが、何をどんな風に主張されたいのか、主張のポイントがどこにあるのかが見えにくかったです

私がENTP&理論的に物事を語りたい、構築したいタイプということも合わなさの原因はあると思います。






文学は「役に立つ」のか——その問いの複雑さ


(ここまで、読む意思はあって、頑張って読もうと思ったんだけどダメだった、この本のコンセプトがよくわかんないという議論を展開しております)

「文学は何の役に立つのか?」という問いに対して、私はこう考えています

自分を“rich”にする(enrich)という意味では、文学は確かに役に立つでしょう。言葉の感受性や、他者の視点を想像する力、複雑な感情を受け止める余白。それらは、人生を豊かにしてくれると思います。「正気」でいるため、という作者の言葉を言い換えるのであれば、私たちに余白を残す、もしくは余白を新たに作ると言い換えてもいいのかもしれません

ただし、ここで正直に言えば、私はある程度経済的に恵まれており、時間的にも(?)余裕がある立場にいます。だからこそ、文学(もしくは、それっぽいもの、あるいは自分では文学と思いこんでいるもの)に時間をかけることができるし、その価値を享受できるのかもしれません。もし、日々の生活に追われていたら、文学に触れる余裕すら持てなかったかもしれないです

文学が“役に立つ”かどうかは、その人の生活状況や社会的立場によって大きく左右されてしまう

文学は役に立つのかという問いについて、読書体験は役に立つのかと少し乱暴に議論を進めてみましょう。三宅香帆さんが書かれた『なぜ働いていると本が読めなくなるのかでは、読書体験、もしくは読書を(情報を受け取ることとは切り分けた議論の中で)ノイズであるとうたっています(読書体験と情報をつかむことは別だとしている)(同 p.223~)

 
ノイズは万人にとって役に立つとは言い切れないし、(役に立つのかという疑問と並列にしていいかはわかりませんが) 社会的に評価されるか、役に立つのかどうかも、現時点では保留にせざるを得ないのだと思います

文学は、即効性のあるスキルやテクニックとは違います。競争社会の中では、優先順位が低くなるのも、ある意味では“しょうがない”のかもしれない。ノイズを受け入れる余白がある人には、楽しめるんじゃないのというのは少し嫌味な言い方かもしれません…が、それでも自分は、文学(もしくは、それっぽいもの、あるいは自分では文学と思いこんでいるもの)に意味を見出したいと思っています



問いを立てたい


読了できなかったことに、少し残念な気持ちはありました。読めなかった自分を正当化しているわけではありません。けど、そんな読書体験もいいですよね笑。「今の自分には合わなかった」のかしらと思うことにします。また時間が来たらきっと読みたくなることでしょう。それにしたって、わたしは、強烈な問いを食らったわけです

むしろ、読めなかったことで、自分が文学(もしくは、それっぽいもの、あるいは自分では文学と思いこんでいるもの)に何を求めているのかが少し見えた気がします。(そもそも文学って何?って感じですが)

私は、文学作品を通じて、問いを投げかけられたい
明快な答えよりも、もやもやとした余韻や、言葉にならない感情の揺らぎを求めている
強烈な違和感こそ“立ち止まって考えるチャンス”だと思いたいです

時間も空間も遠く離れたところから、作者に問いかけてもらいたい。夏目漱石からかもしれないし、トルストイからかもしれないし、平野氏からかもしれないし、10年先に会う大文豪からかもしれない


いつでも問いを受ける余白があれば、文学はきっと自分の役に立つだろう

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(Liber内で読んだ方々、あーでもないこーでもないしゃべるイベントやりません?笑)
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#BookCommunityLiber
#文学は何の役に立つのか
#文学はなんの役にたつのか