スピノザ『エチカ』    2018年12月 (100分 de 名著)


今回はスピノザ著のエチカ、の100分de名著版になります。
著者はみんな大好き”ひまりん”の國分功一郎さん。

エチカとは倫理学、つまり「どのように生きるべきか」を説いた本です。

國分さんをして

「スピノザ哲学は我々と思考のOS(オペレーションシステム)が違う」
「ありえたかもしれない、もう一つの近代」を示す哲学

と言わしめた本です。





スピノザ、汎神論について

スピノザは、17世紀のオランダを生きた哲学者です。
同時代を生きた哲学者としては、彼の36歳上にデカルトがいます。
スピノザの思想は「汎神論」とも呼ばれ、当時のキリスト教的考えとは相いれず、危険人物扱いされていました。
エチカは生前には出版されず、彼の死後に友人らにより発表されたものです。

汎神論とは、森羅万象すべてが神であるという考え方のこと。

神は絶対的な存在である
→神には限界がなく、無限である
→神には「外部」が存在しない
→すべては神の中にある    「神即自然」






概要

本書は4つの章で構成されています。

1.善悪
2.本質
3.自由
4.真理

一つ一つみていきます。





1.善悪

一般的に言われる「不完全」とは、完全でないものとして語られる。
この場合の「完全」とは一般的観念、つまり偏見のこと。
例:角が一本しかない鹿を見て不完全だと思うのは、角が二本ある鹿がイメージ(一般的観念)としてあるから。

実際にはそうした意味での「完全」なものはこの世には存在しないので、
その対となる「不完全」なものも存在しない。
つまり、すべての事物はそれぞれ完全な存在である。

完全・不完全の区別がないのと同様に、
この世にはそれ自体として善であるものや悪であるものは存在しない
では、スピノザにとっての善悪は何か?
それは「組み合わせ」である。
例:音楽
憂鬱な人にとっては励ましになる→善
亡き人を悼んでいる人にとっては悲しみにひたる邪魔になる→悪
耳が聞こえない人にとっては→善でも悪でもない


私にとって善いものは、私とうまく組み合わさって、私の活動能力を増大させる
別の言い方をすれば、「より小なる完全性から、より大なる完全性へと移る」。

私にとって善い組み合わせかどうかは、やってみないとわからない。
その意味で、スピノザの倫理学は実験することを求める





2.本質

一般的に、事物の「本質は形である」だと考えられがちである。(=エイドス)
しかし、スピノザは「本質は力である」と考える。image.png 2.17 MB例:農耕馬
本質が形だと考えると、競走馬と本質が似ている。
本質が力だと考えると、むしろ農耕牛に近い。(どちらも「農耕」という作業に力を使うのに向いているため)


その力は、状態を維持しようとする傾向を持った力である(=コナトゥス)
例:ホメオスタシス
体の水分が減ると、血液が濃くなる。それを脳が感知して、水を飲むように司令を出す。すると、のどが渇く。


さて、この力と外界からの刺激との関連を説明する。
個物は刺激に反応して、変状する(何らかの形態や性質を帯びる)。
変状すると、欲望が発生する(個物を動かす力)。
欲望は本質そのものである。
例:悪口(刺激)→へこむ(変状)→忘れようとする(欲望)

事物の本質は、コナトゥスであり、欲望である。





3.自由

自由とは、制約がないことではない。
自由とは、「与えられた条件(制約・必然性・法則・原因)のもとで、その条件にしたがって、自分の力をうまく発揮できること」である。
例:魚は水の中でしか生きられないという制約がある。制約を逃れ陸に上がっても死んでしまうだけである。水の中でうまく泳いで生きることができたときに自由である。

自由とは、能動的な状態である。
自分の行為の原因が自分であることである。
自らの行為において自分の力を表現している状態、ともいえる。
逆に、自らの行為の原因が他者であったり、他者の力を表現している場合は受動的である。
能動と受動とはグラデーションである。
例:お金を人にあげる
ヤンキーに脅されてカツアゲされた場合、その行為はヤンキーの力を表現しており、受動的。
自らの善意から募金をする場合、その行為は自らの力(親切心や憐憫の心など)を表現しており、能動的。


与えられた条件は、あらかじめわかっているわけではない。
実験しつつ学んでいく必要がある。学ぶものの例→歴史、環境、自分の性質など
また完全に分かるわけではないことへの謙虚さも必要だ。

人間は自らの行為の原因がわからず、意志が0から生まれたように感じがちである。





4.真理

真理とは、簡単に言えば「正しいこと」である。

17世紀は思想的なインフラが整備された時代である。
デカルトは「われ思うゆえにわれあり」という真理を打ち立てた。
彼の真理観の特徴は、真理を公的に人を説得するものとして位置づけていることである。
「われ思うゆえにわれあり」は誰にも反論できない

一方スピノザの真理観は、より私的な、自身の納得感を重視するものであった。
真理を獲得すれば、「ああ、これは真理だ」と分かるのであり、それ以外に真理の真理性を証明するものはない。
納得するには、体験が必要である。





まとめ

私にとって善いものは、私とうまく組み合わさって、私の活動能力を増大させる。
事物の本質は力であり、外界の刺激による変状に応じた欲望である。
自らの行為において、自分の力をより多く表現できている状態は、自由であり能動的である。
実験により真理を獲得すれば、真理を獲得したことがわかり、納得感が得られる。

私にとっての善を増やし、活動能力を増やすことで、より自由な状態となることで、多くの体験を得て、自らにとっての真理を獲得しよう。


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以下、感想です。

①納得について (ジョジョの奇妙な冒険    スティールボールラン)

僕の短い人生で、正しいことだと納得できていることがあるとすれば、それはなんだろうか?

贈与に気付くこと。
自分は決して一人ではなく、いろんな人の贈与で生きていることに自覚的であること。

このことだけは、自分の中で確信が得られている、気がしている。




②自由について
進撃の巨人の完結以後、ずっとモヤモヤしていることがありますが、本書を元に改めて考察してみます。

エレンは自身を討ち取らせ、アルミンたちを英雄に仕立て上げるために、壁外人類を攻撃した。
→ここまでは、心情としてはわかる。
エレンの行為は周囲の状況(壁外人類が壁内人類を滅ぼそうとしており、話し合いも通じそうにない)をより表現しており、本書の意味で言えばあまり自由ではない。
image.png 902.96 KBでももしアルミンたちが止めなかったとしても、壁外人類を攻撃したという。
そして、その理由は自分でもわからない、と。
→これが、よくわからない。
image.png 644.88 KBもしエレンの行為が「何物にも制約されない状況(一般的に言う”自由”)を求める心」をより表現したものだとするのなら、ある意味では自由な側面もあったのかもしれない。

アニメ版ではここがどう描かれるか?注目してみたいと思います。
もしよかったら、進撃の巨人既読の方で、ご意見いただければ嬉しいです。
 

というわけで今回は以上です。
お読みいただいた方。ありがとうございました。