暇と退屈の倫理学アウトプット
「騒いでる 僕らの遊牧 スピリット
環(たまき)を渡るは 学びと想像(創造)」
人間が自分の世界に閉じこもれないことなんて、言うまでもない。
開拓が、単に生存に必要な物資を求めての活動に留まらないのは、その創作物から溢れ出してる。
地上に未開の地が多かった時代は、この地球上を舞台にファンタジーを作った。ギリシャ神話がこの地球上を舞台にしているだなんて、現代のラノベクリエーターからしたら論外かもしれない。
地表があらかた知れてきたら、今度は遠い水平線を目指して船を出し、地底に潜ってみたり、失われたアトランティスに思いを馳せてみたり。地球の外にも出た。まだまだ分からないことばかりの宇宙だけれど、もうトレンドは去って、異世界転生。
僕たちは、僕たちの手の届く範囲の生活さえままならないのに、常にその視線はどこか遠くを、まだ見ぬユートピアを眼差しているようです。
「何か新しい刺激ください〜」「恐怖と暴力も割と興味ありです!」って、困ったもんだよ大脳辺縁系・・・。このままじゃあ、いつか“未開”がなくなった時に、退屈で気が狂ってしまう。或いはその前に、マグロの如く停滞したら死んでしまう資本主義が、疲弊して立ち止まってしまうかも知れない。そしたら、この本能的衝動は一挙に暴力性に注ぎ込まれるかも知れません・・・。
お粗末ながら、対処のためのアプローチを二つばかり考えてみます。
一つは、
マインドフルネス・ミニマリスト系アプローチ
地に足をつけて生活することによって、何気ない日常生活から充足感を得ることを目指す。うつり気激しい関心さんを、生活実態の圏域に引き留めておく試みです。
漂流者アプローチ
(名前は即席。さすらってる感がかっこいいから、というだけの理由)
感覚器官を問わず、様々な方法で「学ぶ」ことによって、他者の世界を渡り歩きます。ただ、当然、同じ海原を目前にしていても、押し寄せる波の荒さ、乗り上げるタイミングは異なるので、他社の視線を「想像」しながら、それを自分のうちに取り込み、自分のイカダを創造しなくてはなりせん。
こんな風にして、2つのアプローチを適宜組み合わせながら生活すればARやVR、バイオレンスな刺激
がなくともそれなりに退屈せずに過ごせるかも知れません。
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つまるところ、この投稿で何が言いたかったのかというと、僕は、リベルで皆さんと関わって、さまざまな視点を想像し、それを栄養に考え思い巡らして、つたいないながら文を創造することにとても充足を感じているよ、ということです。