村上春樹氏の『走ることについて語るときに僕の語ること』は、同じくマラソンとトライアスロンを実践する私にとって、非常に共感性の高い読書体験となった。
ウルトラマラソンという未知の領域を除けば、彼が取り組む競技は私のそれと重なる。年齢によるタイム差はあれど、彼が綴る経験の一つひとつには「そう、そうなんだよな」と深く頷かされるものがあった。
これまで村上ワールドには漠然とした苦手意識があったものの、本書で描かれる自然や動物の描写、そして内的感覚の表現は、非常に読んでいて心地よかった。
本書を通して感じたのは、行為の当事者だからこそ理解を深められたといえそうな、走ることの多面的な実感である。
走る理由 - 言語化される目的と、行為の只中にある本心
村上氏は走る目的を「小説を書き続けるための健康維持」と説明する。これは他者が最も理解しやすい形であり、一つの真実だろう。しかし、これは一側面にすぎず、村上氏自身も本書の中でそれに触れているが、経験者として思うのは、これはある種の「決断的諦め」であり、それ以上踏み込むと危険な領域に入ってしまうことを知っているが故の「リミッター」ではないかということだ。
レースの最中、苦しさの頂点にいるとき、「健康のため」などという理由は正直どうでもいい。意識はただ、今この一歩を前に出すことにのみ集中している。あるいは集中という概念すらない。
また、アテネからマラトンまで走った際に想像したビールの味が、現実のそれよりも格段に美味しく感じられたというエピソードも、この心理を的確に表している。極限状態での渇望は、当たり前のものですら精神的に純化させ、至高の存在へと昇華させる。その妄想の時間は、実は苦しさの中の密かな楽しみでもあるのだ。
苦しみの先の「実感」 - なぜ僕らは、あえて苦しい道を選ぶのか
本書の中で、特に心を掴まれた一節がある。
> 苦しいというのはこういうスポーツにとっては前提条件みたいなものである。もし苦痛というものがそこに関与しなかったら、いったい誰がわざわざトライアスロンやらフルマラソンなんていう、手間と時間のかかるスポーツに挑むだろう? 苦しいからこそ、その苦しさを通過していくことをあえて求めるからこそ、自分が生きているという確かな実感を、少なくともその一端を、僕らはその過程に見いだすことができるのだ。生きることのクオリティーは、成績や数値や順位といった固定的なものにではなく、行為そのものの中に流動的に内包されているのだという認識に、(うまくいけばということだが)たどり着くこともできる。(『走ることについて語るときに僕の語ること』 230ページより引用)
この言葉には、ただただ納得するしかない。先日、アクティブなお二人と語った際にも、この感覚について3人の意見が完全に一致したのは面白い発見だった。
そして最近見たサントリーのCMで、小梅太夫氏が出演する階段とエスカレーターの比喩を用いたものは、まさにこの感覚を多くの人に分かりやすく伝える絶妙な表現だと感じた。普段の彼の芸風が哲学的かはさておき、このCMは明確に哲学的だ。
トライアスロンのリアル - 共感と相違
本書で語られるトライアスロンの描写にも、私自身の経験を重ね合わせた。
* スイムパート: 苦手な私にとって、いかに体力を温存するかがポイントだ。集団の中で蹴られ、ぶつかり、パニックに陥りそうになる感覚、方向がわからなくなる感覚も、語られるすべてがリアルだった。
* バイクパート: 村上氏が熱心に練習するのに対し、私は練習を真面目にしていない、ぶっつけ本番がこれまで多く、レースではいつも課題が残る。巡航速度30km/hで走る私の横を、40km/h近い猛者が一瞬で駆け抜けていく感覚。一方で、自分よりゆっくりな選手を抜き去る感覚。そして実力が似通った人と抜きつ、抜かれつを繰り返すドラマもある。
さらに、バイクパートではこんな心理的な駆け引きも「あるある」だ。紳士諸君のサガとして、おっさんアスリート勢の中に女性アスリートを見つけると珍しくて気になってしまう。彼女らは女性アスリート部門でトップクラス(またはそれに準ずる)のエリート選手だ。
一方で彼女らに抜かれると、「男のテストステロン量を持つお前がそんなんでいいのか」というプライドが出てきて抜き返したくなり、つい力を使ってしまうことがしょっちゅうある。
* ランパート: 村上氏同様、私にとって最大の武器であり、(上手くいけば)喜びを感じるパートだ。バイクパートまでの遅れを取り戻し、周りの選手をごぼう抜きにしていく快感は確かにある。特にバイクからランに移った直後の1kmは、なぜか身体が異常に軽くキレがある。オリンピックディスタンスでははじめ、1km4分を切るようなスピードが簡単に出てしまう。(もちろん、そのペースは維持できないため徐々に落ちていくのだが。)これは一般的なトライアスリートのセオリーとは異なるかもしれないが、私にとってはレースの楽しみの一つだ。
身体との対話 - 暴動を「なだめすかす」マネジメント
レースが長距離になればなるほど、それは自分自身の身体との対話になる。村上氏はロベスピエールやダントンを例に挙げて言うことを聞かない筋肉(民衆)について語るが、私の感覚は少し違う。それは、いつ暴動を起こすかわからない民衆を「なだめすかす」統治者や中間管理職の感覚に近い。どちらかというと課税させてくれない貴族を背景に三部会を開いた、ルイ16世の方が立場は近いかもしれない。
ここで力を使えば、後で必ず足が攣る。暴動が起きてしまえば、もう歩くことしかできず、時には完全に止まってしまうかもしれない。(身の破滅)そうならないよう、いかに穏便に、すかし、なだめ、ゴールまで身体を導いていくか。暴動を先送りしてゴールまで持たせるか。
この繊細なマネジメントこそ、長距離スポーツの奥深さであると同時に、貴族だけではなく民衆が大暴走したフランス革命の如く、過去に失敗して痛い目を見たこともあるものだ。
※ロベスピエールもダントンもルイ16世も、みんな処刑されている点では同じといえるかもしれない
結び - 6割の納得、2割の相違、そして未知への扉
総じて言えば、本書に書かれていることの6割は深く納得・共感し、2割は私とは少し違うという感覚を覚え、残りの2割はウルトラマラソンという未知の領域だった。
その未知の領域について、会社の上司(トレイルマラソンで100キロなど走る)から面白い話を聞いたことがある。富士山の周りを100km走るレースでは、多くのランナーが経験するという、森の中で自動販売機の幻覚が見える話だ。
また、やっと見つけた本物の自販機も、「10円玉切れ」でお釣りが出せず、目の前に飲み物があるのに買えないという理不尽な事態に遭遇するらしい。「200円でも1000円でもいいから売ってくれ!」と心で叫ぶその状況は、日常では当たり前に享受している「自由」が、いかに脆いものかを教えてくれるようだ。この不自由さ、非日常性を楽しむことこそ、この競技の隠れた魅力なのかもしれない。
また、村上氏が書くウルトラマンで発生した「自分は機械だ」と自己暗示する境地。そこに至るまでの道程は想像を絶するほど辛いだろうが、いかに身体を「なだめすかす」かの先にあるその感覚は、一度体験してみたいという好奇心をそそられる。
本書は、私にとって走ることを言語化された嬉しさがあり、そして言語化不可能な、「なんでかわかんないけどやっている」という側面について深く考えるきっかけにもなった。
おわり。

