J哲学とは?
土着の日本哲学、輸入された西洋哲学の枠組みを超えて、哲学に取り組む。
日本語で行われているために「J」が冠されている。
2010年代のそれは、「自由のための不自由論」という観点から論じることが可能で、本書はそれを6人の哲学者たちの著書から読み解いていく。
*要約が長くなったので、いくつかのブログに分割することにする
1.國分功一郎:中動態の世界
この書籍はすでに過去ブログで紹介しているので、関連ブログと共にリンクを載せておく。
しかしそれを強調すると、自己を縛っている要素を考えないことになり、結果として、より不自由な状態となる。
むしろ、自らを不自由にする制約をよく認識し、その制約下で自らの力をうまく発揮できるようにすることこそが、(スピノザ的)自由である。
魚が”水中”という制約の中で自らの力を制御し”自由”に泳ぎ回るように。
2.青山拓央:時間と自由意志
青山の哲学の性向は、人間の生の「相対的な絶対性」である。
人間の生はよくよく考えれば偶然的で相対的なものであり、私たちが「確実だ」と考えている事柄はほとんど幻想でありうる。他方で、私たちは生きている限り〈人間〉という枠組みを離れることができず、私たちは決して「人間を超えた」あり方で生きることができない。青山は人間の生の相対性と絶対性の両側面に惹かれている。 45p
青山は本書においてふたつの不自由論を展開する。
①二人称的自由
三人称的な「彼」「彼女」らは私にとって遠い他者であり、殆ど私の自由を侵害しない。
この人たちは私にとって背景でしかなく、内面=自由意志を有さない。
二人称的な「あなた」はその近さ故に、私の自由を侵害する。
そこには私にとって「不可視の内面」があり、そこにこそ自由意志がある。
逆に、一人称的な「私」は、”予測できなさ”がなくすべてが見えてしまっているため、そこに自由意志を見出すことは難しい。
「他者の意識が見えないからこそ他者の身体行動の背後に自由意志の働きを想定する」という理路が可能だからである(一六六頁)。かくして次のように言える。〈不可視の内面〉という(三人称も一人称も有さない)特性が、自由と二人称が結びつくことの根拠なのだ、と。 50p
さて、二人称的な「あなた」と呼ばれうる存在が全くいない世界を想定することはほぼ不可能であり、そのため自由意志もその存在は不可避である。
ここから≪人間は人間として生きる限り決して自由意志の存在を認める関わり合いから逃れられない≫という命題が帰結する。 54p
②不自由の極北としての無自由
自由意志とは〈世界の進展のさまざまな可能性のうちからひとつを選び取るもの〉である。しかしこれは矛盾している。
55p
AまたはBへ進みうる歴史の分岐点に決断Xがあり、Aへ進むことが選ばれた、と仮定する。
しかし、分岐点上のXは、Bへ進む可能性をまだ有しており、決断になっていない。
分岐点より前にXがあっても同様である。
また、分岐点以後のXであれば、それはすでにAへ進んだ後であり、「BではなくAに決める」力を持たない。
決断Xに時間的幅があったとしても、その幅のどこでBの可能性が遮断されるのかが決定されねばならないため、同様に決断として作用できていないことになる。
このように考えると、「決断」は矛盾しており、自由意志の存在も否定的になる。
*これは「意志」を「脳」や「遺伝」と言い換えても一緒である。
≪決断の瞬間はありえない》とする彼の議論は人間以外にも当てはまるので──じっさい分岐問題は脳・遺伝子・環境の決定についても生じうる──「脳が決める」や「遺伝が決める」などの言い回しもまた不整合を含むからだ。 61p
自由意志が否定された空間においては、何かが何かを選んだり決定したりすることはない。すべてはただ生じるだけである。
青山は、こうした「する/される」の区別のない境地を、言い換えれば《自由か強制か》がもはや問題にならないような「ただ在る」という境地を、「無自由(afree)」な世界と呼ぶ(一五七頁)。 62p
このように、青山は自由意志の存在しない「無自由」の世界と、人間が自由意志を感じざるを得ないことの、その両極を提示している。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
青山の無自由論では「決断」が否定されたが、じゃあ現実の「決断」はどうなっているのか。
そのキーワードは、勉強の哲学で提示される「非意味的切断」にある・・・かもしれない。