ミュウツー「私は誰だ。私は何のために生きている」

数十年ぶりにポケモンの映画を見ようと思って、ジュースを飲みながら懐かしい気持ちで見ていたら、根源的な問いを投げかけられドキッとした。
映画館で見たときは、7歳。
30歳になってから見たら、こんなに深い映画だったのかと驚愕した。

「私は誰だ。私は何のために生きている」は誰もが大なり小なり一度は考える問いだろう。
多くの哲学者もこの問いに挑んでいる。
哲学者デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言った。
これは、自分を含めた世界の全てが虚構だったとしても「自分はなぜここにいるのか」と疑っている自分は存在するということ。
ただ、自分の存在が証明されたとしても「私は何のために生きている」の答えにはならない。ミュウツーは納得しないだろう。
ミュウツーは「自分が存在している意味」を求めているのではないだろうか。

じゃあ、「自分が存在している意味」とは何か?
サトシは、ミュウとミュウツーの戦いを命がけで止めた。
争いに心を痛めポケモン達のために行動するサトシを見て、ミュウツーは「お前(ミュウ)も私もすでに存在しているもの。ポケモン同士だ」と言った。
全てを破滅させようとしていたミュウツーがサトシを通じて、初めて「他者」を感じた瞬間だった。

この「他者」が自分が存在している意味の鍵になると僕は思う。
「わかる」の語源は「分ける」。
自分と他者を分けて考えるからこそ、自分が浮き彫りになり、自分が分かる。
かといって、当初のミュウツーのように「自分とそれ以外」だと、物体としてはあるけど個別の存在としては感じられていない。
ポケモン同士だ(僕たちであれば人間同士と置き換える)、と捉えることが大事だ。
自分だけが他と違う特別な存在ではなく、自分も他者も今のこの瞬間を生きている運命共同体なのだと。
そうなると、「私とあなた」というリアルな関係になる。

「私とあなた」の関係だと、目の前の他者の感じていること、考えていることを共有することができる。
その共有を通じて他者との繋がりを感じ、その相互関係の中に自分の存在を見出すのではないだろうか。
そして、相互関係における自分の存在は、確固たる「自分が存在している意味」があるのではなく、相互関係の中で常に意味を問われ続ける。
『夜と霧』でV・E・フランクルは、人間とは生きる意味を「問う存在」なのではく、人生から「問われている存在」だと言っている。
「問う者」から「問われる者」へ。
「問われる者」と認識した時、人生は意味を問うものではなく、自分を越えた何かからの問いに答え続けるプロセスそのものが人生となる。
まさにミュウツーも「コピーポケモンも今を生きる生物である」という答えに辿りつき、今をどう生きるかの問いに答えるために、コピーポケモン達と旅立っていった。

「なんて深い映画なんだろう」
ピカチュウが泣き、他のポケモン達も泣き、それ以上に僕はむせび泣きながらそう思った。

「歩き続けてどこまでゆくの?風にたずねられて立ち止まる。
…いくつもの出会い。いくつもの別れ。まぼろしのような思い出もすこし。
…歩き続けてどこまでもゆこうか。風と一緒にまた歩き出そう」

主題歌「風といっしょに」

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▼追記
みなさんが、素敵な本を紹介されていたので変わり種としてポケモンを紹介しました!
書いていて、途中で迷走しましたが、自分なりにはスッキリしております!
映画の感想、異なる視点、コメント等々頂けると幸いです!