著者は、山口大学の時間学研究所というところの准教授。
1975年生まれだから、現在46-7歳の方。


幸福はなぜ、哲学の問題になるのか。
すごく難しい本で、まとめることは到底できそうにない。

そもそも、なぜこんな本を手に取ったのか?
知ったきっかけはbook cafeというvoicyで紹介されていたからである。

読もうと思ったのは、私が幸福というものを考える機会が多いからだろう。
自分や家族は当然として、不遜ながら患者さんの幸福についても常日頃からよく考えている。私が「心の優しい医師」だからではなく、考えないと臨床がうまくいかない、考えざるを得ないからである。

ただ、幸福という概念は「沼」であり、考えれば考えるほど抜け出せなくなりよくわからなくなる。かといって、シンプルな答えに逃げ込むのも違う気がする。

というわけで、何か一助になればと思い本書を読んだわけだが、結局本書を読んでも当然ながら答えが出るわけでもない。


なにせ、本書で幸福とはなにかという問いに最終的に答えているのがこの一文だからである。

そのうえであえてひとことで述べれば、幸福とは、先の立体構造における多数の「共振」の集合です。    184p

(「本書を読んだうえで”幸福とは結局何なのか”なんて言わないで下さいよ」、と前置きした上での一文)

本書を一通り読んだから私はなんとなく著者の言わんとすることが理解できたような気がしているが、未読の方からすれば「???」でしかないだろう。


以下、本書をかいつまんで要約。
網掛けが要約または引用、網掛け外の小文字が@こば の感想。
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幸福とは何か、という問いに対して大きく3つの説がある。
主観に根差した快楽説、欲求充足説、客観に根差した客観的リスト説。
多くの場合、これらの説はバッティングしない。むしろ同時に得られることが多い(=共振)。
例外の例1:家族に愛されていると思ったまま死んだが、実は愛されてなかった(快楽〇欲求充足×)
例外の例2:ゴッホのように無名のまま死んだが、後世で評価された(快楽×欲求充足〇)


幸福本には2種類ある。高みを目指す「上昇本」と、今のままでいいと説く「充足本」。


「毎日を大切に生きる」というメッセージには罠がある。
①多くの人が毎日を安売りしてくれているから社会が成り立っている。
②毎日の選択が重くなるリスクがある。芸術や学問は軽い選択の試行錯誤でこそ発展しうる。

メメントモリが常に良いとは限らない、と。
どうしても死を意識して生きるのが難しいなと常々感じていたが、こうしたデメリットを鑑みると、意外と軽く生きることも悪くないのかもしれない。


活動(エネルゲイア):内部に目的を持つ。完了性・完全性あり(≒充足)
運動(キーネーシス):外部に目的を持つ。過程。
徳(アレテー):卓越性。過剰と不足の中間(中庸)の性格を持つ。
幸福(エウダイモニア):徳+活動による徳の発揮により至る。「よく生きていること」

ニコマコス倫理学が引用され、中庸の重要性についての記載あり。
やっぱり中庸って大切だなぁと再確認。

人類史を一本の映画ではなく一枚の画のようなものとして、つまり、時間的に順番に展開されていくものではなく、空間的に一挙に展開されたものとして捉えたとき、その一枚の画が豊かな色彩や描線に富んだ──充実したさまざまな「活動」に満ちた──ものであることは、それ自体として価値をもつでしょう。    46p

映画的に人生をとらえるなら、最終的に死を迎えてバッドエンド。人類史としてとらえても、最終的には滅びてバッドエンドかもしれないし、滅びなかったとしてもそうして生き続けることに何の意味があるのか?と思えるかもしれない。時間を直線的に捉える西洋的発想の弊害だろうか。
でも、人類史を人生を一枚の画としてとらえて、それらが様々な活動で彩られたものであれば、確かにそれもいいかもしれない。禅などの「いまここ」に集中する思想とも親和性を感じる。


幸せを二つの思想で考える。
観念論:あるものが認識を通して存在するという考え
    →主観的に幸福であれば、幸福。
実在論:あるものが認識と独立して存在するという考え
    →主観的に幸福でも、幸福とは限らない。
    →例:麻薬でトリップしたまま死ぬ。本人は主観的には幸福を感じたまま死ぬが、客観的に幸福とは言い難い。

「幸福なんて人それぞれ、とは一概に言えない」というのは、こうした思考実験をすると確かに納得せざるを得ない。
昔は良かったなどと言う言説は、不衛生などで多くの子供が死んでいた事実を無視している。アフリカの子供が日本の子供より生き生きしている、などという言説も主観的幸福の観点からしか幸福を捉えていない。
ただし、客観的幸福とは(多くの人が合意する)間主観的幸福に過ぎず、多数派の意見を少数派に押し付けることにもなりかねないことにも注意が必要。

実在論の観念論化。
例:主観的に不幸だと感じている
→「私の現実の背後にどんな可能性があるか?」
→現実より不幸だった可能性を見出す
→現実が幸せな状況だったと知ることで、主観的に幸せになる。

他人の不幸は蜜の味、というのは人間の悪性ではなく、他人を通して現実の背後の可能性に思いを馳せるからかもしれない、と。うーん、なるほど。
一方で他人からすれば、「私をダシにして幸せ感じてんじゃねえ」という話にもなる。感動ポルノ。

誰が集団を幸せに導くか?という、政治における同船性。
内部の者だと、集団の利益よりも自己利益を追求するかもしれない。
外部の者だと、所詮関係ないからと無責任な決定をするかもしれない。
予めどの集団の長になるかわからない状態で選挙をするといいかもしれない=「逆ヴェール投票」

確かに。診療所経営してても、集団全体の利益も考えるけど、いろんな意味で自己利益を優先させがちになるからなぁ。まあ集団全体の利益と自己利益がさほどバッティングしてない(と思う)から、いいかと思ってるが。
時には外部の人の「無責任な意見」もフレッシュで参考になるかもしれない。

幸福は「家族的類似性」を持つ言葉だ。
一つの家族( 親族 )の ある 構成員 は、他の構成員と何らかの仕方で似通っている (体つき・顔・眼 の 色・歩き 方・気質)が、すべての構成員にあてはまる一つの特徴があるわけではない。

以前コミュニケーションの本を読んだ時も家族的類似性というワードが出てきた。
大体厳密な定義ができないワードの多くはこれなんだろうなぁ。

幸福の立体構造。
①1階:「幸福の構成要素とは何か?」に関して、体験の必要性と欲求充足の必要性で2×2を考える。
②2階:「それが構成要素とされるのはなぜか?」に関して一般性を持った答えがあるかどうかを考える。
・「ない」→無回答説
・「ある」→主観説、客観説、自然主義説(主観でも客観でもないもの。生物学的機能に訴える)
③3階:構成要素A・Bについての「なぜ」が得られたとして、それらが同時に得ることができないとしたら、どちらを優先すべきか。なぜA(又はB)を優先するのか。

自然主義説というのがよくわからない。引用されている文献を読んだが、具体的な記載がなく、いまいちピンとくるような来ないような。https://link.springer.com/article/10.1007/s11098-012-9978-4 
でも幸福なんていうつかみどころのないものに関して、こんな論文があること自体が驚きだし、こうした積み上げにはありがたく乗っかりたい。

教訓には二つあって、先人がそのために失敗したから後人はそれをしてはならぬ、という意味のものと、先人はそのために失敗し後人も失敗するにきまっているが、さればといって、だからするなとはいえない性質のものと、二つである。     
恋愛は後者に属するもので、 所詮 幻であり、永遠の恋などは 噓 の 骨頂 だとわかっていても、それをするな、といい得ない性質のものである。それをしなければ人生自体がなくなるようなものなのだから。つまりは、人間は死ぬ、どうせ死ぬものなら早く死んでしまえということが成り立たないのと同じである。    183p

坂口安吾の堕落論からの引用。
恋愛は所詮幻影であり、他人や未来の自分から見たら馬鹿馬鹿しいものだけど、でもそれも人生の一部なんだと。
そしてこれは先の立体構造からは外れた「異様な幸福」なんだと。
これはメチャクチャ響くなぁ。ほんとに今考えたら馬鹿だったなぁと思うし、子どもが同じことしようとしてたら止めたくなるけど、そういう恋愛も必要だったのかなぁ。

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さて、本書を読むことで何を得たか。

僕らが素朴に「幸福になりたい」とか「幸福って何だろう」とか悩むなら、まず先人の知恵を借りたほうがいいということである。

古今東西、幸福にまつわる本はたくさんあるが、幸福について哲学する本は初めて読んだ。(本書の定義では、哲学とは「自説の正しさを疑いながら少しずつ考えをつないでいくもの」)

よくある幸福本から感じる違和感が、かなり解消されて整理された気がする。


幸福という言葉に対する解像度が上がる、良い本でした。
難しいですが、読みやすい本です。

是非皆様におすすめします。