本記事は、OSIRO社のコミュニティ献本企画に参加し、献本を受けて執筆しました。

この本を読み終え、自分がLiberに入って向き合っている「何のために文学を読んでいるのか」という課題について改めて向き合うことができた。タイトル以外にも多岐にわたるテーマでの講義録からなっている本なので、どの部分についてブログを書くか迷いましたが、私としては表題について深く掘り下げて残したいと思う。このような貴重な読書体験の機会を設けてくださった平野啓一郎様、OSIRO社、およびBookCommunityLiberアバタロー様に心より感謝申し上げます。

さて、今までLiberでは好き勝手にブログを書いてきたが今回は外部公開が必須とのことなので少し緊張するがいつも通り書いていきたいと思う。ネタバレも込みで書くのでこれからこの本を読む人は一応注意をしていただけると助かる。表題の章については40ページほどなのでその部分だけでも読んでほしい。

まずは表題の「文学は何の役に立つのか?」という問いに対して私なりの見解としては「文学は文脈の理解に役に立つ」という考えである。

そもそも役に立つとはどういうことなのか。過去にプラグマティズムの考えにイベントを通して触れたのでその記憶をもとに整理すると固定された真理の追求ではなく動的な問題に対して文脈的に判断して効果的な手段であることが役に立つということだと認識している。

役に立つことに関してはこの本では価値の面や、社会的機能、コスト価値、リスクなどの面から考えていた。一般では短絡的に役に立つかどうかで議論されているため役に立たないという結論に至りがちで、作家や愛好家が役に立たなくても価値があると表明しなくてはならない。どの側面で価値があるかどうかを判断するには色々な要素があるため、個人として今の世の中で正気を保つためと位置づけている。

平野啓一郎様が体験している世界は恐らく私よりもずっと実践的で業界の中で体験してきた話なのでこの意見については深みがあり、ペシミスティックよりな部分があるが非常に納得のいく答えだと感じる。楽天的に無根拠で価値がある、役に立つ、読んでおかないと後悔する、など言われるよりよほど身に染みる。

一方自分は役に立つという立場でこのブログを書いている。これは文学の愛好家としての立場を捨てきれずに持っている感情かもしれないので大いに偏見が入った意見となってしまうだろう。自分は主に文学を読み解くイベントをこのLiberで開催している。趣味レベルではあるが哲学も同じく読み解きを行っており、文学と哲学を並べて語ることが多い。

あくまで一側面でしかないが、私は哲学は文学を読み解くための道具として捉えている。

私は文学を読むことや語ることを大事にしているが自分なりのスタンスを表明すると、文学は「一貫性が無いこと」が最大の価値だと思っている。哲学書は考えを表明するものなので1冊を取ると考えが一貫していることが多い。文学は作品の中で登場人物が迷い、悩み続けて正解と言えるかどうか分からない答えを出して物語を進めていく。

社会や生活というものは一般的な答えが無く、人によって価値がそれぞれであるため役に立つかどうかは各個人によって変わっていく。人は実際に体験したことを書けば1冊は作品が作れるとどこかで見た気がするが、まさしく人ひとりとってもドラマ性に満ちた生活を過ごしている。よく言われている事ではあるが文学はその体験を物語化したものが多く、作品に触れれば触れるほど様々な疑似体験を行えるということになる。

人の体験が物語化することは本で捉えれば文脈化するということではないだろうか。つまり文学を読むと「人が生きてきた体験を物語として文脈的に捉えて理解でき、問題に対してどのような答えを導き出したか疑似体験をして考える」と言う事になると私は考える。

この行為が何の役に立つのか、という問題が今回の問いであるが、人と会話したり様々なケースでの事柄を文脈的に理解することには効果的な手段と捉えることができると感じた。しかし文学だけが優位性を持っているかというとそうではない。ドラマや人との会話で物語を文脈的に理解することもできるだろう。それでは何故文学なのか?と言うとそれはただ単に好きだからだろう。

そのため自分は文学を読み解き、人との会話の中で文学で得た学びを生かしているが、文学こそが最高の教材であるとは口が裂けても言えない。ただ大事なことは人は迷い、一貫性がなく、悩み続け、その場での答えを出し続けているものだと考えている。その悩みを文脈的に捉えることについてはやはり文学は役に立っているのではないかと自分は考えるので、これからも文学の読み解きを進めて悩みながら答えを見つけていきたい。

#文学はなんの役にたつのか #BookCommunityLiber